トップエッセイコース PC用 2004年(H16)1-6
担当者 弊社社長 益永

…出会った経営者、感動した事柄や、折々の思いを執筆

     
第1弾配信 人が真に生きがいを感じるのは?  
第2弾配信 子供とつながるチャイルドライン  
第3弾配信 二束のわらじで使命の道を歩む人  
第4弾配信 日本一の車セールス井上壮樹さん  
第5弾配信 冷戦終結の立役者ゴルバチョフ  
第6弾配信 中村校長先生の壮烈な死から思う  
第7弾配信 経営品質向上で先駆タカヨシさん  
第8弾配信 痛快「しなの鉄道」復活秘話!  
第9弾配信 経品・知事賞受賞企業を訪問して  
第10弾配信 北の国にて「北の国から」を聴く  
第11弾配信 初めてのアメリカ旅行  
第12弾配信 伝説の投資家に学ぶ投資の王道  
 
第1弾 (H16年1月5日配信)

人が真に生きがいを感じるのは?

 

 ある会合で幸伸食品(永平寺)の久保社長のお話を伺い感銘しました。まさに組織とはトップの「志」次第なのだと知らされたのです。

あの阪神淡路大震災の日の朝、久保社長は社員さん達と既に本業の豆腐作りに励んでおられました。やがてテレビで惨状を知った社長は素早く行動に移ります。作った豆腐と借りてきた大きな鍋をトラックに積み、一路大阪への向かうのです。

途中から道がデコボコになり渋滞がひどくなります。何とか着いたのは翌日の午前2時過ぎ。

炊き出しの湯豆腐の匂いが、真っ暗な被災地に漂いはじめると、あちこちから、大勢の人が集まってきました。
列に並んだ一人の少女が、「3つください」と言うのです。
「みんな一人に一つずつなんだよ」と答えたものの、その理由を尋ねると、事情が分かりました。
両親が亡くなってしまい、体育館の隅におじいちゃん、おばあちゃん、それに小さな妹が動けずにいるのだそうです。だから、「私の分はいらないから、3つください」と言うのだそうです。
もちろん久保社長は、途中でこぼさないようにラップして、ダンボール箱に入れて少女に渡してあげたそうです。

2日間の炊き出しで、ひとかけらの豆腐も無くなって、後ろ髪ひかれる思いで帰路についた久保社長とその社員さん達でしたが、大勢の人が手を振って見送ってくれたそうです。
その中に、例の少女もいて、「一生懸命に手を振っている姿は生涯忘れることはできないだろう」と久保社長は話しておられます。

帰りの車の中で、ふと気づいたことは、この間、何も口にしていないことだったそうです。確かにぎり飯を載せてあったはずだと、探して食べたその美味しさも、また格別であったそうです。

福井に着いたのは早朝で、仮眠だけしてまた仕事です。
残業手当てもない無償の奉仕にも、社員誰一人文句を言う人がいなかったそうです。それどころか、マスコミで取り上げられ、学校でも先生が授業の中で取り上げてくれて、社員の子供が家に帰って、「学校で誉められた。僕も行きたかった」と言ったというのです。
貴重な体験を積んで、社員さんの結束も強まったようです。
何より、「人生で一番大切であり幸せなことは、人間らしく生きること」を社員さんが身を持って知ったことのようです。
久保社長は、「きらりと光る超優良企業」を目指して、常に率先垂範で頑張っておられるようです。
ちなみに、同社の商品は農水省の「ふるさと食品」部門で4年連続の受賞を果たしています。

第2弾 (H16年1月20日配信)

子供とつながるチャイルドライン

 

 福井県子どもNPOセンターの岸田美枝子理事長は世田谷チャイルドラインのことを朝日新聞で読んで衝撃を受けました。「ああ、これって福井でもやれるかもしれない」と直感しました。(チャイルドラインとは、子ども専用電話で、18歳までなら誰でもかけられる料金無料のフリーダイアルです)
そして世田谷に飛びました。どのようにチャイルドラインを開設したのか取材して、イギリスの情報も集めました。
  福井で始めるといっても、どうサポート体制を作るのかが一番の大きな問題でした。ボランティアの人達の研修をどうするのか、ボランティアで対応ができない場合に、どう専門家の体制を作るのか、場所をどこにするのか、何回線引くのか等々、一つひとつ乗り越えていくべき問題が多々あり、一年間かけて準備をしました。

 幸い福井大学の三人の教育心理、児童心理の先生方がアドバイザーとして応援してくれることになりました。ボランティアの募集をしたところ、20代から70代の70人ほどの老若男女が研修を受けてくれました。
  まずチャイルドラインのことを子どもたちに知らせることが肝要です。教育委員会に行っても、「教育委員会後援」という名前の入っていないものは学校には配れないと断わられました。ただ、教育委員会の名前が入っていたら、「秘密は絶対守るよ」とチラシには書いてあっても、子どもたちは警戒するに違いありません。

 「教育委員会」という名前が入っていないチラシとカードを全ての県内学校に配ってもらうために、岸田理事長らメンバーが何回教育委員会に通ったか、数え切れないほどです。

 色んなつてを頼ってお願いしにいき、ようやく県の教育委員会が「あなた達が35の市町村全てに説明に行きなさい」ということになりました。一ヶ所落ちると行政というのは早いようです。福井市が落ちると、他の市町村もバタバタと落ちていきました。

 そしてようやく、2000年の5月5日にチャイルドラインが開設され、11日までの一週間、24時間体制で電話を受けることになりました。

 電話は鳴りっぱなしになり、一年目は一週間で766件の電話を受けたのです。2年目は10日間実施して、電話の件数は986件ですた。電話の多さにすぐ常設を考えましたが、ボランティアの体制が整わず、3年目から月2階の常設とし、現在は毎週月曜日に電話を受けています。

 1~2年目は電話の約4割が無言電話でした。

 「はい、チャイルドラインです」 「ノ」 後ろでテレビの音がする。あるいは、電車の通る音がする。電話が切れる。次の電話では男の人が出る。 電話が切れる。若者が出る。切れる。おばあちゃんが出る。すると「もしもし」と話し出す子がいる。

 ある時は、「もしもしチャイルドラインだよ。今日、学校行ったかな?」 「ノ」 「聞こえていたら、受話器をトントンって叩いてくれる? 聞こえてるかな?」 受話器をトントンと叩く。

「ああ、じゃあ、あってたら、叩いてね。男の子かな?」 叩かない。「女の子かな?」 トントン。 「今日、いいお天気だね」 トントン。 「学校、楽しかった?」 トントン。「給食、全部食べれた?」ハ 叩かないノ

岸田理事長はその時、気づいたそうです。「あっ、これって無言電話じゃない。ちゃんと、トントンで会話してるじゃないか!」と。
チャイルドラインから見えてくるものは、実は子どもたちが心の底で求めているものは「話し相手」であり「きずな」であり「自分のことを無条件で認めてくれる存在」であるようです。ますます忙しくなっていつ大人達が、ふと立ち止まって考えてみることの必要性を教えてくれています。

第3弾 (H16年2月5日配信)

二束のわらじで使命の道を歩む人

 

 矢納正人さんは、福井テレビの営業部長という要職にありながら、数々の講演をこなし、なおかつ『夢点々』という小冊子に毎回、長文の投稿もされています。

弊社の全社員大会でもご講演いただきました。
講演会では、子どもの人間関係や不登校の話題でいつも聴衆を感動させているる矢納さんですが、ご自身も子どもさんのことでは悩まれたことがあるようです。
そういう経験もあってか、今や使命感を持って、各地で啓蒙活動をされているのです。
矢納さんによれば、国際比較調査では「自信のない日本の子ども」が浮き彫りになっているそうです。認められていない分、自分に自信が持てず、人間関係の取り方が分からなくなると、突然キレてしまうのだそうです。

日本の子どもが自信を持てない要因の一つとして、「見守っているよ」という安心感を与えていない大人に責任があるとされています。実際、将来について相談できる大人の数と自信度の関連を調べたところ、相談相手の数が多いほど自信度が高いとう結果が出ているそうです。

「受験競争の中で疲れ、友達もできなくて一人苦しんでいる子ども達に親ができることは、親の言うことをきいたり、競争の勝者になったから誉めるのではなく、その子がその子であることの素晴らしさを誉め、『存在』そのものを肯定する言葉…愛語をこそ、まずは意識的に掛けていくようにしていくことではないでしょうか」と書いておられます。
しつけの国際比較調査では、日本の親はあまり子どもを誉めないという結果が出ているそうです。人は否定され続けると、何らかの手段を使って心のバランスをとろうとするものだと。兄弟間のトラブルや犬・猫の虐待が増えているのも、自分より弱いものをいじめることでしか、心のバランスがとれない子どもが増えてきた証拠だとされています。

10年近くにも渡る拒食症を克服した女性が、「0.1ミリの成長を誉めて気づかせてくれた人がいたお陰で自信を取り戻すことができました」と言っていたそうです。辛い時は、自分自身が自分を肯定できないものですから、側にいる人がほんのちょっとであっても、その人の成長を指摘してあげることが大事だというのです。
このような矢納さんのご指摘は、何も子どもとの関係に限らず、家族や社員との人間関係にも通じることだと反省させられました。

第4弾 (H16年2月20日配信)

日本一の車セールス井上壮樹さん

 

 東京トヨペット虎ノ門営業所に勤務する井上壮樹さん。日本一の車のセールスと言われている人です。33年間に渡る営業マン人生での販売台数は述べ6,000台近く。社内での次点が現在4,000台で5,500台達成も難しいと言われているそうです。また、「今後、トヨタの歴史が何年続いても、5,500台売る人間は出ないだろう」とも言われているそうです。
ところが井上さんの最終目標は7,000台。「未来永劫絶対に抜かれない目標を後輩に残すのが男の夢とロマン」という井上さんの販売テクニックとはどのようなものか、誰しも興味が湧くところです。
そんな井上さんをお招きして、昨年3月の弊社創業130周年記念オープンセミナーでご講演いただきました。実際にお会いした井上さんは小柄ですが、がっちりしたタイプ。そして声の「ハリ」と力強さ、そして元気の良さは「さすがトップセールス」と思わされるものでした。そして何より驚かされるのは気配りの素晴らしさでした。
井上さんは東京トヨペットに入社後、8年間メカニックとして働いた後に、会社の上司に説得されて29歳の時に営業に転じたという変わり種です。「どうすれば車が売れるのか」方法が全く分からない中で、ビルの最上階から次々と会社へ飛び込み訪問をしながら階を下りていく方法を採りました。
ご多分にもれず、様々な困難にぶち当たりました。不渡りが出た会社から車の回収をしたり、お客様に罵倒されたり、あるいは一時間土下座させられたことも数え切れません。契約後に「○○を付けろ」と言われたり、「下取り価格をもっとあげろ」と言われたり。売った車がお金を集金する前に横流しされたり、契約している最中に相手が亡くなったり。支払おうとしない相手に、朝夕、毎日3ヵ月通ったこともあります。「集金できないのなら車を引き取ってこい」との上司の言葉と不誠実なお客に挟まれて、苦しむこともありました。
営業に転じてからの1年間はそのような無我夢中で働く毎日でした。会社に飛び込み訪問をし、断わられるとまた再訪。同じ会社に月に5~6回足を運びます。あらゆる会社を徹底的に歩いていて3ヵ月過ぎた頃から、「そんなに来るのなら、見積もりを取ろう」とか「親戚を紹介してあげよう」という声が出てきました。
1年目の販売台数は64台で「最優秀新人賞」を獲得。以来、2年目は125台、3年目は167台と着実に実績を積み上げていきます。井上さんの人柄に魅せられるのか10人のうち、3~5人は他のお客様を紹介してくれるのだそうです。
井上流「人間関係の作り方」というのがあるそうで、①聞き役に徹しながら、相づちをいれて相手から話を引き出す、②日常のコミュニケーションを大事にする、③知り合いの病院にお客様を紹介することでお役に立つ、④豊富な人脈を活用して、お客様の様々なニーズにお応えする、⑤周りの人に細やかな気配りをする、⑥お客様に体当たりして現場で問題解決に努める、⑦自己成長を図るためにも場数を踏み、たくさんの人と会う、⑧感謝の気持ちを常に持つ、等々です。
井上さんは「修羅場をいくつもくぐり抜けてこそ、人間は強くなる」と語っておられます。「もっと苦労して車を売れ。もっと苦労して、みんなが力をつけろと言いたい」とも。
井上さんは「私に休息はない」と今日も第一線で頑張り抜いておられます。

第5弾 (H16年3月5日配信)

冷戦終結の立役者ゴルバチョフ

 

 まだ記憶に新しい名前であるはずの「ゴルバチョフ大統領」。正式にはミハイル・セルゲーヴィチ・ゴルバチョフ。1985年に旧ソビエト連邦の新しい書記長に53歳で就任しました。
 
  ソビエト連邦とは、マルクス主義の共産主義国家を実現しようとするレーニンらによって1922年に設立された国家です。レーニンの死後は”20世紀最大の虐殺者”と言われるスターリンが半ば恐怖政治的な強権政治を行って強い国家を築き上げました。しかし、専制政治のため社会矛盾が噴出し、スターリン後はフルシチョフが民主化をしようとするも失敗。その後は、穏やかな社会主義を実現しようとするブレジネフの元で停滞の時代が続き、アンドロポフやチェルネンコという長老が書記長を引き継いだ後に登場したのが、若きゴルバチョフでした。
 
  当時のソビエト連邦は、米ソ冷戦の中で、軍備拡張競争に莫大な金が使われ、経済は破たんし、そして犯罪が急増するなど、危機的状況に陥っていました。

 ゴルバチョフ新書記長は大胆なグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(政治・経済改革)を進め、米国レーガン大統領とのマルタ会談(1989年)で半世紀にわたった冷戦を終結させ、かつ東ヨーロッパ諸国の民主化も支持しました。

1990年には共産党の一党独裁をやめ、大統領制を導入し、自らがソ連邦の初代大統領に就任しました。同年、ノーベル平和賞を受賞したのですが、翌91年、保守派によるクーデターでクリミア半島で軟禁状態に置かれます。一家虐殺をも覚悟したそうですが、クーデターは失敗に終わります。ゴルバチョフはソ連共産党を解散し、ソ連は15の構成国が独立してソ連邦は消滅。実権はその中心国・ロシア連邦共和国のエリツィン大統領に移りました。

 東西冷戦が戦争や流血の事態を最大限に抑止しながら終結し、かつての共産圏の国々も含めて世界に新たな秩序と安定をもたらすきっかけを作ったのはゴルバチョフであり、その功績は称えられるべきかと思います。
 
  そもそもゴルバチョフがペレストロイカを始めようとする際に、親友であるチンギス・アイトマートフ氏(キルギスの世界的文豪)と交わした会話がアイトマートフ氏の証言で残されてあります。

 それは1989年のことだそうです。アイトマートフ氏は呼び出されました。
  当時はペレストロイカが未會有の民主的改革として脚光を浴び、もてはやされていた頃でしたが、水面下では、右からも左からも、民主派からも、党閣僚からも、見えざる不満と批判の声があからさまになり、強まってきていた時でした。国の経済が慢性的な低落傾向にあったことも影響していました。

 ゴルバチョフの顔には心痛の跡が刻まれていました。

 アイトマートフ:「ペレストロイカの嵐が私たちを翻弄しています。民主主義がこんなに時間を使ってしまうものだとは思いませんでした」
  ゴルバチョフ:「わかります。とてもよくわかります。確かに時間がありません。しかし同時に、別なもの・・・とても大事な心の発見があります。どんな思考も追いつけないような時代が突然開けたのですから。芸術家も、哲学者も、政治家も、そして、あらゆる人々が言うべきことを持っているのです」

 アイトマートフ氏は古い寓話を語ることで、ゴルバチョフの心をさぐろうとします。それは・・・
  ある為政者のもとに、一人の予言者が訪れました。

「為政者よ、あなたには二つの道、二つの運命、二つの可能性があります。どちらを選ぶかは、あなたの自由です。一つの道は代々の伝統にならって、圧政によって権力の座を固めることです。二つ目の運命。それは受難の道です。なぜならば、為政者よ、あなたが贈った『自由』は、それを受け取った者たちの恩知らずの心となって、あなたに返ってくるからです。自由を得た人間は過去に対する復讐をあなたに向けるでしょう。どちらの運命を選ぶかは、あなたの自由です」

 為政者は、その時、予言者に答えました。

「七日間、私を庭で待っていてくれ。私は熟考しよう」・・・

 このような古い寓話を、アイトマートフ氏はゴルバチョフに語った後、早くも自分のやったことを後悔し、挨拶をして帰ろうとしました。
 
  その時、ゴルバチョフは苦笑しながら、口を開きました。

「言わんとすることはわかっています。しかし、七日間も私を待つ必要はありません。七分でも長すぎるくらいです。私はもう選択をしてしまったのです。どんな犠牲を払うことになろうとも、私の運命がどんな結末になろうとも、私はひとたび決めた道から外れることはありません。ただ民主主義を、ただ自由を、そして、恐ろしい過去やあらゆる独裁からの脱却を・・・私が目指しているのは、ただこれだけです。国民が私をどう評価するかは国民の自由です・・・。今いる人々の多くが理解しなくとも、私はこの道を行く覚悟です・・・」

アイトマートフ氏はその場を辞しました。

 ゴルバチョフは強い権力に守られたクレムリンで”おとぎの国”に暮らすこともできたのです。そうすれば、もっと平穏無事な人生を送ることができたでしょう。しかし、そういった安穏を振り捨てて、敢えてペレストロイカという現実の戦闘の中に飛び込んだのです。

 親友アイトマートフ氏は前途を案じ、為政者と予言者の寓話に託して選択を尋ねたわけです。つまり、自由を与えられた民衆は、善をもって報いるとは限らない。むしろ、過去の圧政への恨みを晴らすために、報復が待っているかもしれない。それでも、なおかつ、国民に自由を与えるのか、と。

 ゴルバチョフは決然と答えました、「敢えて自由の道を選ぼう」と。
「私は収穫の時には立ち会わないかもしれないが、今のうちに蒔けるだけの種は蒔いておきたい」と。

 案の定、ソ連邦崩壊後は、政治・経済・社会が著しく混乱を極めました。国民は去り行く人の背中にやじを飛ばし、冷笑を浴びさせ、足蹴にし、投石しました。自国の強大さを最大の生きがいとしてきた人達は、超大国の廃墟に目をやりながらゴルバチョフを恨みました。また、食料品が少ない店の行列に並びながら、心の底からゴルバチョフを憎みました。マフィアもまた短期的な賭けをたくらんで、社会に跋扈しました。

 今まで潜んでいた矛盾が一気に吹き出したため、改革や民主化の波はゴルバチョフの予想を上回るスピードで進み、その波は改革を始めた本人さえも飲み込んでしまったと言えるのかもしれません。

 ロシアを旅行した知人が2年程前に語っていたことは、その当時でもまだ、ゴルバチョフに対する国民の心情は厳しいものだったという事です。

 グローバル的な視野で見ると、ノーベル平和賞ものの功績であったとしても、真意はなかなか伝わらないものだということでしょう。氏の真の評価は後世の人々に任せるしかありません。

第6弾 (H16年3月20日配信)

中村校長先生の壮烈な死から思う

 

 兵庫県宝塚市立高司中学校の中村諭先生が、昨年11月15日夜、学校を出たきり帰らぬ人となりました。問題が多発する教育困難校への辞令が多く、それを「男冥利に尽きます」と言って受けておられたようでした。2年程前でしょうか、中村先生が福井で講演された際、少しお手伝いさせて頂いたことがありました。駅までお迎えにあがり、講演を拝聴し、その後の懇親会にもご一緒させて頂きました。講演中の熱烈な話し方は懇親会でも変わらず、2~3人との立ち話でも決して力を抜くことをされないのです。まさに情熱の塊のような方でした。

そのような先生でしたから、自殺の報道には、「まさか?なぜ?」との思いと、できたら生徒達のためにも生き抜いて頂きたかったなどと勝手なことも思ってしまったのです。
でも、自殺するまでに至ったお気持ちは本人にしか分かぬことであり、周りの人間が無責任な評論をするのは差し控えなければなりません。

中村先生は、「殺人以外は何でも起こりうる」と言われるすさまじい状況の中で、子供達に媚びることなく、また威圧することもなく、愛情豊かに接してこられたようです。「問題を抱えた子供の中に、私はいかほども壊されない純粋な心を見る」と、教育に打ち込んでこられました。

葬儀に駆け付けた2500人以上もの参列者のうち、先生の教え子が最も多かったそうです。「おれは中村先生に命を救われた人間だ。せめて先生が最期を迎えた場所を教えてほしい」と、警察に食い下がった青年もいたそうです。

なんでもかんでも学校のせいにして逃げる風潮がある中、先生は子供達と闘い、親達と闘い、そして同僚の先生達とも闘はなければならなかったようです。校長先生が一人頑張る孤独感はそうとうなものであったことでしょう。

 茅ケ崎で講演された際も、その後の懇親会でも真情を熱く語っておられたそうです。先生はお疲れだろうと、主催者側が懇親会半ばで、早めにホテルへお送りしたそうです。でも、後で中村先生はスタッフに言っておられたことは、「なんで、わしを早く帰したんや。あの場から去りとうなかった。ホテルに帰ったら、えらい落ち込んでしもうてな」であったそうです。

 純粋な情熱の魂のような人にとって、身内にネガティブなエネルギーを持った人がいるとすると、それは大変な負担になることでしょう。同じ志を持った同士が集う懇親会は先生にとっては「離れたくない場所」であったのかもしれません。

 あれほどの情熱を持った方がなぜ自ら命を絶たなければならなかったのでしょうか。悩みを打ち明ける同士がいなかったのでしょうか。なんでも学校の責任にする親やマスコミは先生の死をどう受け止めているのでしょうか。

 時間が経てばやがて記憶が遠くなるのかもしれませんが、中村先生の死を無駄にはしてはいけないと思います。

第7弾 (H16年4月5日配信)

経営品質向上で先駆タカヨシさん

 

 株式会社タカヨシさんは2000年度新潟県経営品質賞の知事賞を受賞されています。
でも、実は1999年度には惜しくも落選されているのです。チャレンジ精神旺盛な高橋社長さんは経営品質賞のことを聞いてすぐに取り組みを始められました。1年半、社内で勉強会を続け、アセッサーの資格者を社内に増やしていかれました。そして、自社を自分達で審査して経営品質協議会に申請書を提出されました。その時は、少しでも会社を良くみせようとやっておられたというのです。でも、落選後にかけられた言葉に、目の前の霧が晴れるような思いであったそうです。それは、「あなたの会社は確実に伸びてきたのだから、それを社員に話すように分かりやすくレポートにして下さればいいのです」という言葉であったそうです。「そうなのか、何も背伸びをする必要はないのか。自社がやっている良いこと、悪いことを全て書けばいいのだ。そして、悪いことは3~5年かけて直していけばいいのだ」

考え直した高橋社長さんは、さらに経営と社員の質的向上に全力をあげていかれたのです。そして、それが2000年度の表彰となったのです。

株式会社タカヨシさんは社員の挨拶の素晴らしさで有名です。毎朝の朝礼で「おはようございます!」、「有難うございます!」、「いらっしゃいませ!」を3回ずつ練習をされています。

社内ですれちがう場合の挨拶も、必ず一時停止してお互いに挨拶をするので、同社の評判は広まり、今では見学者がひきもきらない状況になっているのです。そんな挨拶と笑顔が素晴らしい高橋社長さんなのですが、実は家庭では、結婚以来、奥様には挨拶を交わしたことがなかったというから、面白いではありませんか。今から7年前にようやく、「おはようございます」と言うようになったのだそうですが、40年間もやってこなかったことですから、当初は2ヵ月間くらい悩まれたそうです。そういう人間的な一面をお持ちであることに、ホッとする平凡な私(益永)ですが、いずれにしましても今の高橋社長様の明るさと元気の良さはお年(77歳)を感じさせません。

船井総研の船井会長をして、「高橋さんの笑顔は良い、この人と付き合うと良いことがありますよ、商売が良くなりますよ」と、受講生200人の前で言わしめたその笑顔を見てみたくありませんか?

第8弾 (H16年4月20日配信)

痛快「しなの鉄道」復活秘話!

 

 しなの鉄道の社長に就任した杉野正氏は、全社員を一度に集めることは不可能なので、3日間、午前・午後の6回に分けて集めて、現状を説明しました(本当はべらんめい調なのですが、読みやすいように標準語に変えます)。

「しなの鉄道は100円稼ぐために128円かかっていて、28円の赤字です。赤字ではやがて潰れてしまいます。赤字を出さなくするためには、3つの方法があります。まずは、100円を130円にすれば2円の黒字になります(増収策)。あるいは128円を98円にすれば2円の黒字になります(コストダウン)。でも、実はもう一つあって、それは廃業することです」と言明したのです。
これ以上、税金を無駄にすることは許されないのだと訴えたのです。
社員は3つ目の方法は嫌だと言うので、それなら「増収かコストダウンしかないでしょう」ということになりました。

「はじめから存続ありきでは、改革なんてできるはずがない」と杉野氏は語っています。
加えて杉野氏は「大きく変える」ことの重要性を強調しています。
社長に就任してすぐに、「明日から、今まで購入していたものの価格を3割落としてくれ」と言明したのです。
「社長、3割は無理です。せめて1割でないとできません」と言う社員には、「いいよ1割で。でもあとの2割は自腹を切ってね」と答えたそうです。
杉野社長によれば、5~10%のカットであるならば、頭を下げればできないことはないが、それでは駄目なのだ、というのです。今までの延長線上で仕事をしていたのならば成功はない、というのです。なぜなら、今まで通りならば、しなの鉄道も赤字のままであるからです。
「3割カットは、今まで通りのやり方では絶対にできないのであって、新しい仕組みとか方法が必要なのです。5割だと夢になってしまうし、3割でちょうどいいのです。新しいやり方を採用しても1割しか落ちなかったとしても、それはそれでいいのであって、大きく変えるということが大事なのです」と語っています。

また、杉野社長は「お客様志向」に徹したようです。女性の「トレインアテンダント」を置いて、お年寄りが乗り降りする際にお手伝いするようにしました。
お客さんの目線に立って、何でもやっていくのだそうですが、一つのルールはあって、それは「3つのハッピー法則」です。つまり、お客さんも、社員も、そして会社もと、3者ともがハッピーになれる方策でないと駄目なのだそうです。
例えば、しなの鉄道に乗れば1万円差しあげることにすれば、お客さんは喜び、社員も楽しいかもしれませんが、会社は長続きしません。一番多いサービスとは、お客さんと会社は喜ぶものの、社員に過度の負担をかけているようなことだと言うのです。
杉野社長の方針は「現場に立て(鍵を開けろ)」です。会社は9時始業ですが、自ら一番早い6時50分に出社し、鍵を開けて、出社してくる社員に「おはようございます!」と声をかけるのだそうです。社員の顔色を見て、体調を伺うことができますし、彼らが何時に出勤してくるのかも分かるからいいのだそうです。
また、社長室に座っているのは1日20分ぐらいで、あとは事務所の中で立ちながら「ワイワイガヤガヤ」議論しながら仕事を進めているのだそうです。
しなの鉄道名物は月1回、朝の「挨拶1,000本ノック」です。「おはようございます!」 「有難うございます!」と100回続けて唱和し、挨拶日本一を目指しているのです。
さて、新聞報道によれば、杉野社長はこの度、しなの鉄道の社長を退任して、今度は埼玉高速鉄道の社長に就任するようです。こちらも同じ第三セクターで200億円を超える累積赤字を抱えているのだとか。
また、例のべらんめい口調と抜群の行動力で、今度の会社も早期に立ち直らせるのでしょうね。楽しみです。

第9弾 (H16年5月6日配信)

経品・知事賞受賞企業を訪問して

 

 去る4月24日(土)、新潟市はホテル・イタリア軒で開催された㈱タカヨシさんの創立44周年記念式典及び記念講演会にお招きを受けて参加してまいりました。

同社の高橋春義社長様には3月末に当社の全社員大会でご講演頂きました。その際、「私どもの社員大会も是非見に来て下さい」と、お誘いを受けていましたので、これも学び(ベンチマーキング)と思い、初めて新潟県へ行って参りました。

まずは壇上の垂れ幕が目につき、そこには「重点行動指針」として、「文字こそ生命(いのち)整理・整頓・躾」とありました。

朝8時開会でしたが、その1分前になると恒例だそうですが、全員が起立して周りの人々と笑顔で握手を交わしました。
国歌斉唱の後は、来賓紹介ということで、銀行、会計事務所、取引先等の関係者に交じって私も紹介されました。名前が呼び上げられると、来賓の方も「ハイ!」と返事をして起立されるので、私も大きな声で挨拶をしたつもりです。

続いての「社長挨拶」では、高橋社長が「企業の目的とは永続することである」とし、「益茂証券さんは130周年も続いている」と、当社のことをご紹介下さり、大変に恐縮しました。

さらに、このようなこともお話されました。

 「滅びの入り口とは次のような言葉です。『まあ、この位でいいや』、『急いでいたからミスしちゃった』、『仕事が多
いので・・・』、『誰かが見てくれるだろう』、『自分一人くらい・・・』などです。企業のレベルは下限で決まると言われています。ですから下限を上げなければなりません。教育でもってしかできません」
「うさぎと亀の競争で、なぜ亀が勝ったのでしょうか。それはうさぎは相手を見ていたのに対し、亀は目標だけを見ていたからです。自分の目標だけを見て、達成するための努力を続ける事が大事なのです」

 来賓祝辞では地元第四銀行の支店長がお祝いの言葉を述べられ、続いては「昇格者辞令交付と決意表明」、「永年勤続表彰」、「無遅刻無欠勤表彰」と続きました。
「無遅刻無欠勤表彰」では40名近い方が壇上に上がられ、最長13年の男性がおられましたが、内勤のみの表彰で有給すらとっていない方々だと伺いました。

 その後の「各賞表彰」では、「努力賞」や「倫理モーニングセミナー出席賞」(このことは後でもう一度触れます)、「新人賞」、「クレーム発見賞」、「クレーム防止優秀賞」、「提案賞」(7年間で92件具申の方が表彰)、「社員ニコニコ賞」、「目標達成賞」、「新規開拓表彰」、「優秀社員表彰」などがありました。

 最後に来賓の会計事務所・所長さんから「総評」があり閉会となりました。「総評」の一部をご紹介しますと・・・

「無遅刻無欠勤の方がこんなに大勢いるのは素晴らしいことです。私は880社の会社を担当していますが、こんなに挨拶が素晴らしい会社はありません。受賞を受ける皆さんの姿がまたいいのです。来賓にも頭を下げて、国旗や社旗にも黙礼して壇上に上がっておられます。そこで働いている社員さんが尊敬されている会社は立派な会社であるに違いありません。高橋社長さんはこのような会社にするのに50年かかったと言われていましたが、社員の皆さんは自負心を持って頂きたいと思います」

 この所長さんの感想に同意せざるを得ない私ですが、付け加えますと、特に「倫理モーニングセミナー出席賞」を受賞された3名の方々の壇上での姿に私は目を凝らしました。
いい顔だなあ、いい立ち振る舞いだなあ、爽やかだなあ、と眺めていたのです。
あたかも、その壇上には清々しい春の風が吹いているかのようでした。
その3名は、社内の「タカヨシ塾」にも月3回、朝6~7時まで参加していて、社外の「倫理モーニングセミナー」に も月4回、同じく朝6~7時まで参加していて、都合毎月7回も早朝の勉強会に参加しておられるのです。その出席率が90数%だということで表彰されたのです。

社内はもちろんのこと、社外においても、日頃どのような学びの機会を自ら求めて、そして実践していくか。その隠れての行動は必ずや顔や立ち振る舞いとなって現れてくるものであることを目の当たりにし、実感したのです。
それは結局は自己責任であり、自分で自分の人生を担う責任感の深浅の違いにあることを確信しました。

さて、いったん記念式典が終了した後、ビジネスパートナーの集まりである「あすなろ会」の総会が開催されました。
その次は、記念講演として、「Able~エイブル~を求めて」という演題で、陶芸家の高井進先生がお話されました。本当はその後の祝賀会にも参加したかったのですが、その夜に中学校の同窓会実行委員会に出席しなければならなかったため、会場を後にしました。

他社の社員大会に参加するのは岡三証券さんを除いては初めてでしたが、片道4時間40分の新潟への旅は充実に意義のあるものでした。

第10弾 (H16年5月20日配信)

北の国にて「北の国から」を聴く

 

 ★★★ 講演要旨です ★★★

 私は東京で生まれ育ちましたが、30年ほど前の42歳から富良野に住んでいます。富良野に移り住んだ理由の一つは、世の中の目には見えないサイクルから抜け出して、出来る限りのことを自分でやる生活がやってみたかったからです。
  最初、買い物をするためにジープで林道を降りていくと、すごい量のにんじんが捨てられてあるのです。首の青いものや二股のものなどですが、戦時中の食料のない時代を小学生として過ごした私は、食べられるものが捨ててあることが納得がいかないのです。拾ってもいいものかどうか悩みましたが、「シナリオライター、にんじんを盗む!」と地元の新聞に書かれてもまずいので、結局、つぶの揃ったにんじんをスーパーで買って帰りました。
  30年前はマイナス30度を簡単に超えましたが、今は20度を超えるのが少なくなり、温暖化のせいか10度近く違っています。30度近くになると、蓄えておいたビールやジューズのビンや水道管が破裂し、インクつぼのインクもコチコチになります。風呂に熱い熱湯をはっておけば少しは部屋が暖まるかと思ったら、底までコチンコチンに氷ってしまったこともあります。
  富良野には自然林があり、そこに高橋先生という東大の名誉教授がおられました。朝から森の中をさまよっている先生がおたまじゃくしの研究を始めたのです。2年間研究したのですが、分からないことが出てきたので中学の参考書程度の簡単な解説書を読んだら実に参考になった、というのです。ただ、その本の中には間違いも何箇所かあったそうですが…。
  学習というと、今はまず知識を与えてしまい、その前に試行錯誤する時間をほとんど与えません。知識を得る前に、知恵を使うことをさせないようです。
  情報社会と言われていて情報であふれていますが、ほとんど第二次か第三次情報で、誰かの頭の中を通過してきた情報です。第一次情報とは自分の体験から得る情報で、触感や嗅覚など五感をフルに使って得る情報です。
  この前も、塾生と一緒に食事をしていて、私が「この魚どうも臭いぞ」と言うと、調理場に行って「賞味期限切れてません」と言うのです。「賞味期限の問題じゃなくて、ツンときてるんだ」と言うのですが、彼らは賞味期限の方を信じてしまうのです。
  五感の退化は人間の能力の退化であり、恐ろしいことだと思います。でも、富良野に住んで4~5年目に非常に嬉しいことがありまして、夜中に目が覚めるようになってしまったのです。熟睡しているはずなのに目が覚めるのは、耳がピクピクと動くようになって目の奥の神経が引っ張られるからだと思います。犬が寝ていて耳を動かすように、自分にも野性の力が戻ってきたのだと感動しました。

 第一次情報が消えた理由の一つに、しきりに日本の社会で言われる「管理責任」の問題があります。昭和20年代に四国の山の上の貯水池に子供が落ちて死んだことがあり、両親が国を訴えて勝ったのです。以来、学校とかがおびえて、学生を連れて山へ行ったりすることを避けるようになりました。
  外国へ旅行しますと、馬に乗ったりカヌーで川下りする際に、「at your own risk」という書類にサインさせられます。つまり、「自分の責任において」ということで、「管理責任」はあまり言われません。
  私達の「創作」という仕事は、「創」も「作」も「つくる」という意味です。知識とお金でつくるのは「作」と言い、金がなくても知恵で「つくる」ことを「創」と言います。主婦が夕食をカレーにすると決めて、お湯に3分つけて出すのは「作」のカレーで、自分でガラをとって家族にあわせたスパイスを調合してオリジナルのカレーをつくる時は「創」のカレーです。
  「創」の仕事には必ず感動が伴い、そして喜ばれることによって、さらに感動が高まります。「創」と「作」、そして「知恵」と「知識」ということは、あらゆる仕事の中で応用できる大きなポイントではないかと思います。
  田舎の原野に、アスファルトの上で育ち、全く土を知らない子供達を連れてくるとどうなるかと思い、『北の国から』というドラマをつくりました。以来、全国の若者から「そちらで暮らしや勉強ができないだろうか」というお手紙を頂き、私にできることはシナリオライターを育てることぐらいなので、生活も含めて一切お金をとらないでやろうと考えました。
  幸い富良野は農村地で、農繁期になると猫の手も借りたいくらい忙しくなるので、一日朝から晩まで働いて4500円くらいのバイトになります。農繁期に稼いだお金を自主管理させて一年間、なんとか暮らさせそうと計画を立てました。丁度、『北の国から』のシナリオが売れて400万円くらいのキャッシュもありました。教室を丸太小屋で建てようと、カナダから丸太を100本、1本3万円で購入し300万円がたちまち無くなってしまい、残りの100万円はチェーンソー等で無くなってしまいました。
  塾生を募集したところ、10倍位の人がどっと来まして、東京で面接しました。最初の年は15人選び、「ただで教えるが、親御さんから“at your own risk“の一冊だけは頂いておきたい」と言いました。現に本当にケガはあって、居眠りして顔を縫ってしまった綺麗な女優さんもいましたし、指だけで7本位落ちています。ただ、20年やっていますが、一度も親御さんともめたことはありません。むしろ恐縮してお詫びの電話を頂いたりします。

 もう一つのルールは借金をすることをやめようということでした。その当時、三船敏郎さん、勝新太郎さん、杉良太郎さん、万屋金之助さんなど、いろんな人が演劇学校を興したのですが、皆つぶれてしまい、残っているのは仲代達也さんと私のところぐらいです。
  借金はせずに、100万円お金がたまったら100万円分の仕事をすればいいのだと思ったのです。宮沢賢治が生徒にこういう質問をしています。「2引く1はいくつだ」 「1です」 「では、2引く2は?」 「ゼロです」 「2引く3は?」 「マイナス1です」 すると、賢治はこう言うのです、「違う、2つのりんごから3つを取ろうとしてみろ、2つは無くなり、もう1つは取れない。だから答えはゼロだ」と。
  マイナスという概念は非常に危険だと思うのです。これは机上の概念であって、先に使って後で清算するという方式が広まって住宅ローンやクレジット社会になってしまいました。
  今、北海道の農家はどんどん離農に追いやられています。農家は農協から種代や肥料代を一年間つけで買っていますが、早霜が来たりして作物がダメになり、借金がかさんでくると農協から離農勧告がくることになります。
  北海道では近所の隣り組が11人位集まって組合をつくり、借金の連帯責任を負う仕組みになっていますので、青酸カリを飲んで自殺してしまった人は何人もいますし、夜逃げした人は数知れずです。当塾は借金は一切せずにやってきましたので、何とかもっているのだと思います。
  塾生には「この塾は私がつくるけれども、運営はあなた達が自主運営でやってほしい」と言いました。半年間の1日4500円のバイト代で生活費を計算すると、ガソリン代から米代までも含めて、1日3食の食費が合計280円ということになり、実際10年間これでやっています。
  今、農作物の4割方は捨てられているので、近所の農家さんから電話がかかってきて、どこの山の裏に捨てるからという知らせが入ります。にんじん、玉ねぎ、カボチャ、じゃがいも、キャベツなどはそれで大丈夫です。ただ、その代わり肉とか魚はめったに食べれません。
  コンビにでバイトしていた人が入って、富良野に3軒あるコンビニが夜中に捨てる賞味期限切れのものをもらってくるようになってから、3食190円ですむようになりました。賞味期限が切れているからといって食べられないことはないのであって、これも“at my own risk”でやっているのです。
  『北の国から』がらみでごみ処理の勉強をし始め、収集車に乗って粗大ゴミの山へ行った時はぶったまげました。電化製品、ソファ、ピアノ、エレクトローンまで捨ててあるのです。

 あそこは廃棄場ではなくデパートのようです。4月の雪の中で開塾したのですが、その時にこういう起草文を書きました。
  「あなたは文明に麻痺していませんか。車と足はどっちが大事ですか。石油と水はどっちが大事ですか。市場と創造はどっちが大事ですか。理屈と行動はどっちが大事ですか。あなたは感動を忘れていませんか。あなたは結局何のかんのと言いながら、わが世の春を謳歌していませんか」
  塾で一番最初に困ったことは礼儀作法だったのです。若者からは挨拶の言葉一つ出てこず、今の小・中学校は何を教えているのだろうかと思いました。3ヶ月くらい、いろんなことを教えてもダメだったので、半分諦めてかけている時に、友人の高倉健さんが雑談に出ていたのです。
  健さんは目上・目下に関係なく、ものすごく礼儀正しい人で、普通、私達は歩きながら挨拶しますが、健さんは確実に止まってお辞儀をします。止まってお辞儀をするのと歩きながらとでは全然違います。
  そんな話を塾生にしたところ、翌日から全員、高倉健になってしまいました。これにはちょっとムッときました。3ヶ月間苦労したのに、なぜ高倉健の名前を出すと、いきなり変わるのか、俺をバカにしてるんじゃないかと…(笑)。
  しかし、お陰で塾の中がガラリと変わりました。2年間で卒業していくのですが、先輩が後輩に伝えていっています。後輩は先輩を見習いますので、礼儀作法はかなりいいです。
  卒業したのは250~60人ですが、その内40~50人が富良野に戻って生活していますので、今は80人位の大所帯となっています。水道なんか引けない山奥ですから、生活する上で一番に考えなければならないのは水の確保です。飲み水だけでなく洗濯から洗い物まで含めて、一日で人間はだいたい地方で300㍑、都会では400㍑の水を使うといわれています。
  ある谷に昔から伏流水が出ているという話を聞いて、岩の間から流れている水を発見し、簡単な浄化装置をパイプと石や砂で作って使っています。ところが、1年目の夏にものすごい旱魃が来て、水が乾いてしまったのです。それと同時に、6~7km周辺の井戸が全部枯れてしまい、しょうがないので、もっと先まで水をもらいに行きました。
  日本人は木を木材の畑としか見ませんが、木には水の調節と空気の清浄という2つの大きな役目があります。その経済価値がどのくらいあるのかを試算してみますと75兆円という数字が出ています。本当は私達が払わなければいけないお金なのです。
  私有林を持っている人達は木材が売れないことに困って、どんどん森林を売ってしまっています。

 30年たった15~20mの木が一本いくらで売れるでしょうか。チップにするだけですから、なんとわずか270円です。
  もう10年以上経ちますが、4月6日の入塾式の日には「原始の日」というのをやっています。24時間、電気をカットし、電話やガソリンの使用も禁止しますので、夜になると真っ暗で寒いわけです。
  そんな中でロウソクと焚き火だけで屋外で食事会をして酒を飲むのです。寒ければ石を火で焼いて毛布でくるんで布団の中に入れて寝るのですが、都会からやってきた若者達はかなりショックを受けるようです。本当はショックを受けてほしいので、一晩、寒くて暗くて震えて迎える翌朝の太陽の陽の暖かさが、いかに有難いものかを味わってもらいたいのです。
  同じ日に生きた鶏をプレゼントすることにしています。その殺し方を教えて料理させます。最初は反発が出て、「自分で殺すんですか? 残酷だ」と言うのです。「ふざけるな!」と私が言いまして、「お前ら、ケンタッキーフライドチキンを食うだろ。焼き鳥を食うだろ。あれは誰が殺してるんだ。一番、罪深いことは人にまかせて、手前でパックしたものだけ食って、グルメだなんて言うな!」と言うのです。「今日は一番、残酷なことを味わってくれ。もちろん、頂くために殺すんだ」と。だいたい女の子は皆泣きますが、毛をむしる頃になるとケロッとしています。
  『北の国から』の中で牛のお産は何度も出ました。私は「牛が殺される場面を出したい」と言ったのですが、テレビ局が「それだけはやめてくれ。抗議の電話でパンクしてしまう」と言うのです。
  しかし、私達は殺されたものを頂いているのです。命を取っていることの残酷さを認識する必要があると思うのです。それに謝罪し、感謝する必要があり、そうでないと、とっても不公平です。
  最後に、私が尊敬する先輩である故・開高健さんが晩年に残されたエッセイをご紹介します。
  パリのド・ゴール空港に一人の旅人が疲れ果てて、トランクに腰を下ろして頬杖をついていました。空港の係員が近寄って行って、「どうしたのですか、どこかおかげんでも悪いのですか」と聞くと、「いえ、そうじゃないんです。今、遠くから到着したんですが、体は着いたのですが、心がまだ着いていないので、今、ここで心の到着を待っているところなんです」と答えたという、非常に示唆的なエッセイです。
  特にこの30~40年、ものすごい勢いで物質、経済、そして科学が進歩したことによって、私達は前に押し出されましたが、それに本当に心がついてきているのだろうかということを疑問に思うし、恐怖も覚えています。たまには、トランクに腰を下ろして、心の到着を待ってやる必要があるのではないでしょうか。

第11弾 (H16年6月5日配信)

初めてのアメリカ旅行1

 

 益永 哲郎
  長女が米国留学中に一度は会いにいこうと思っていたのですが、結局は学年が終わる5月のこの時期になってしまい、私としてはこの歳になって初めてのアメリカ旅行(5月12~17日)となりました。
  真由美は昨年8月に渡米し、ニュージャージー州立ラドガス大学に留学しました。メールでやりとりをしていましたので、最初の頃こそ大変だったようですが、後は楽しくて充実した学生生活を送っていることが分かっていて安心していました。
5月12日に関空からノースウエスト便で飛び立ち、約11時間半かけて中継地のデトロ
 
イト空港へ。そこで乗り継ぎの同じくノースウエスト便の座席に座ったのはいいのですが、なかなか飛び立とうとしないのです。予定の時間から2時間以上も遅れて離陸、約1時間半でニュージャージー州のニューアーク空港に舞い降りました。後で分かったことですが、目的地が雨や雷の荒天だったそうで、それでも着いた頃には雨もあがっていました。
  ニューアーク空港からモノレール(Airtrain)と電車(NJ Transit)を乗り継ぎ、ニューブランズウイックという駅で降りると、歩いてすぐ近くに娘がいる大学寮がありました。1部屋に2つの小部屋とダイニングキッチンやトイレ・バスがあり、小部屋には2人ずついて、つまり合計で4人が同じ部屋で暮らしています。
  その晩は大学内のホテルに泊まり、翌日は娘に大学内を案内してもらいました。ラドガス大学はキャンパスが4つもあり、その中にはゴルフ場や自然保護林、
 
市内で一番の賑わいの場所でネオンの輝きを眺めてみたりしました。ブロードウェイと呼ばれ
ミュージカルや演劇のメッカでは、現在興行中の出し物の看板が並んでいました。その中には「ライオン キング」や「屋根の上のバイオリン弾き」
という日本でもロングランしていたミュージカルの案内もありました。
 
  そこからは歩いてウォール街へ行き、ニューヨーク証券取引所の建物を確認しました。まさか突然行って、中を見学はできないだろうなとは思いましたが、それど
スタジアムや今回泊まったホテルもあり、実に広大な敷地です。学内は無料バスが運行されており、それで学生は移動するのだそうです。娘がお世話になった大学の職員の方に誘われて昼食をご馳走になりました。実にフレンドリィーな方で留学生の世話役をなさっておられるようです。
  学生課に部屋の鍵を返してから、電車で娘とニューヨーク市に向かいました。これから3泊するホテル・ペンシルベニアに荷物を置いてから、市内観光です。まずはエンパイアー・ステート・ビルディングの展望台に上って市内を見下ろしてみたり、タイムズ・スクウェアという
2日目はまず地下鉄でワールド・トレ-ド・センタービル跡を見に行きました。以前見られたような行方不明者の写真や花束・メッセージ等は完全に無くなり、新しい建物の建設が既に進められているようでした。
ころか、建物は柵で囲まれて、パトカーが停められてあり、警察官や警察犬が厳重に警戒している状態で、遠くから眺めるだけにしておきました。不審な東洋人として逮捕されてはいけませんから…。強気の象徴である「ブル」の銅像もありました。
Airtrain
NJ Transit
ルームメイトの
メアリーと
ブロードウェイ
ワールド・トレード・センタービル跡
ブルの銅像の前で
NY証券取引所
エンパイヤー・ステート・ビルからの眺望
学内バス
職員のリアさんと昼食
大学寮の前で

初めてのアメリカ旅行2

 

 それからまた歩いて、「自由の女神」像見学の遊覧船の乗り場に行きました。昨日のエンパイアー・ステート・ビルでもそうでしたが、ここでも厳重に手荷物の検査が行なわれましたが、仕方ないことでしょう。十数分の船の旅で島に降りて、「自由の女神」を外から眺めました。あのテロ以来、中に入ることはできなくなったそうです。
  翌日は、ヤンキースタジアムでニューヨーク・ヤンキーズ対シアトル・マリナーズ戦を見ることができました。ネットで長女が前もって外野席を購入しておいてくれたのです。松井もイチローも、そして長谷川も見ることができたのは非常にラッキーでした。
 
結構おもしろい打撃戦で、なかなか決着がつかない延長戦となりましたが、12回が終わった時点で球場を後にしました。その晩、ホテルのテレビで確認したところ、13回表にマリナーズが大量6点を追加して、最後は一方的な試合になってしまったようです。
  でも、松井の6回裏の3階席直撃の特大2ラン・ホームランを見ることができ、イチローの
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 計
SEA 0 4 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0 6 13
NYY 0 1 2 0 1 2 1 0 0 0 0 0 0 7
5打数3安打の確実なバッティングも見ることもでき、マリナーズの中継ぎ長谷川の2回1安打1失点の投球も見ることができましたので、大満足でした。
  特にこの日は「マツイデー」と銘打ち行なわれた試合で、保険・金融サービスグループのAIGがスポンサーとなっていました。松井の本塁打1本につき日米の少年野球リーグに百万円ずつ寄付されることが試合前に発表されていました。また、先着1万8千人に松井の写真を表紙にしたノートが配られましたが、私はゲットすることができず、周りには持っている人が結構いました。結果的に本塁打が1本出たわけですから、さすが松井と言わざるをえません。
  私は右翼外野席に座っていましたので、当然ヤンキーズファンで一杯です。ちょうどマリナーズで右翼を守っているイチローが目の前に立っていますから、かなりイチローへの野次が出ていました。それがまた面白いのです。周りのアメリカ人が、「バカ・イチロー」と野次るのです。また、何度聞いても「イタソー・イチロー」としか聞こえなかったのですが、多分「ヘタクソ・イチロー」を間違って覚えたのではないかと思いました。「オカマ・イチロー」とか、「イチロー、ゴーバック・ツゥ・オキナワ」とかいうのもありました。ちょうど私の後ろに座っていた子供がまたよく野次る
のですが、格好の英語の勉強になりました。“Go back to the bullpen、you are not needed here!”などと叫んでいました(「ブルペンにひっこんでな、お前なんかいらねんだよ!」)。
  印象的だったのは試合が始まる前には全員が起立して、外野席中央にたなびく国旗に向かって、右手を胸に当てながら国歌を歌うことです。
私も当然、敬意を表してそうしました。また、7回が始まる前にも起立して亡くなった戦友に対しての敬意を表する歌を歌っていました。その時は、それまでは盛んに野次っていた人が、周りに向かって“Hats off!(帽子を取れ)”と叫んでいるのに、ちょっとジーンときてしまいました。
  さて、翌日の朝早くニューアーク空港へ向かい、またデトロイト空港を経て関空に戻り、福井に戻ってまいりました。こんなことでもなければ絶対にアメリカには行っていなかったと思います。
  さて、ニューヨーク市を歩いていると、まさに人種の坩堝そのもの、黒人の割合はかなりのものだと思いますし、インド系や中国系の人もかなり大勢見かけます。その中で、たまに大阪弁を聞くこともあり、何人であろうとも違和感を感じずにすむのがアメリカではないかと思いました。
  都市によってもかなり違うのでしょうが、私が受けた印象は、ホテルであろうが売店であろうが、日本のマナーやサービスの方が丁寧であるということです。あちらではそれが普通なのでしょうが、ちょっと横柄な、おざなりな対応が目につきました。長女によると、「そんなこと気にしていたら、アメリカでは生きていけない」そうです。私からすると、「こっちは客なのに…」と文句をいいたくなる場面が多々ありました。
  いろんな国からチャンスを求めてアメリカに来ている人々ですから、したたかに強く生きていかなければいかないのでしょう。それだけ競争も激しいわけですし、力がある人は素直に認められる国柄ですが、弱肉強食の厳しい競争社会であるのは間違いありません。
  今ごろになっての初めてのアメリカでしたが、やはり体験にまさるものはなし。もっと旅する「中年おじさん」になろうと決意しました。

第12弾 (H16年6月20日配信)

伝説の投資家に学ぶ投資の王道

 
世界で今何が起きているのかを実業家として、そして一市民として感じていることをお話します。
一つ大切な点は中国の台頭で、中国は21世紀には大きな位置を占めることになるでしょう。19世紀は大英帝国、20世紀はアメリカの世紀でしたが、21世紀は中国の世紀になるでしょう。
中国人は共産主義者だと言われていますが、そのようなことはなく、世界でも最も優秀な資本主義者です。中国では所得の35%が貯蓄に振り向けられていますが、アメリカでは2%を投資や貯蓄に振り向けているに過ぎません。
中国は今まさに上昇気流に乗っているわけですが、もちろん後退する場面もあるでしょう。実際、今年から来年にかけて恐らく中国経済は深刻な場面を迎えるかもしれません。そのようなハードランディングが起きたら、早速電話を取って買えるだけの中国株を買って頂きたい。
また、私が投資家としてアドバイスできることは、皆さんの子供かお孫さんに中国語を学ばせることです。世界で最も重要な言語になるからで、私の一歳の娘は既に中国語を習い始めています。
それからもう一つ、これからの10~15年を見た場合の大きな変化は、商品市況が非常に強気に転じてくるだろうということです。
欧米では1980~90年代、株式相場が大きく上昇しましたが、一方の商品市況は全く音沙汰なしの状況が続いていました。その商品市況の低迷が終息を迎えた98年、商品のインデックスファンドを立ち上げました。これは私が運営しているわけではないのですが、世界中どこを見ても一番パフォーマンスが良いのがこのファンドです。
歴史を振り返ると分かることですが、商品市況は株式市況の裏返しになっています。これは天から降ってくるものでも、手品でもなくて、単なる需給関係によっています。
商品市況の低迷が続いていたために、誰も生産能力に投資をしてきておらず、この25年間で開かれた鉱山はたった一つで、この35年間新しい油田も発見されていません。
鉱山も油田も長年経つと枯渇してきます。世界中の石油の生産地で既に生産量が減ってきていて、それはアラスカでも、北海でも、メキシコでもそうです。

25年間商品市況が低迷した結果、ほとんど世界中全ての商品で供給が細ってきています。ところが需要の方は、アジアや欧州や北米も成長してどんどん伸びてきています。
もう一つの大きな変化は米ドルです。米ドルはこの60年に渡って世界の主要な準備通貨として買われてきました。アメリカは1987年までは債権国でしたが、今や債務国に転落しています。
対外債務は膨らんで3~4兆ドルの規模になり、21ヶ月毎に1兆ドルずつ積みあがっていて、ドル離れが起ころうとしています。私の娘はアメリカの銀行ではなく、スイス銀行に口座を持っています。
アジアで重要なことであり、他の地域にもこれから広がっていく大きな変化は人口の問題です。アジアだけで36億人の人口がいますが、その中に女性が少ないという非常に深刻な問題があります。
アジアにおいてはこの数千年に渡って女性は二級市民という立場だったわけですが、それが今変わりつつあります。アジア、それから世界の他の国々でも女性は力をつけつつあり、やがて男性を超えていくことでしょう。
その理由は簡単な人口動態で、韓国では14歳の女の子100人に対して男の子は120人います。インドの一部の地域では奥さんが見つからないという状況です。昨年の中国の数字では、女の赤ちゃんが100人生まれたのに対して男の赤ちゃんは117人生まれています。
今のところアジアの国々においては結婚というと、お嫁さんの家族がお婿さんの方に持参金を払うことになっていますが、それは女性が第二級の市民だからです。
数千年前のヨーロッパでは、女性の数が少なくてお婿さんの家族が持参金を払った時代がありました。この200年を見ても、欧米では女性が企業を経営し、国や町の役についていますが、それは彼女らが貴重だったからです。
これがアジアにも起ころうとしていていることを理解しなければなりません。これによって、教育、政治、社会、そして投資など全てのものが変わる大きな革命が起ころうとしています。アジアの女性も、男性にもう頼らなくてもいいということが分かっていて、どんどん自分でやりたい事をやっていくでしょう。