トップエッセイコース PC用 2006年(H18)7-12
担当者 弊社社長 益永

…出会った経営者、感動した事柄や、折々の思いを執筆

     
第1弾配信 ㈱車輪庫・籏禮会長の生死の話  
第2弾配信 福井を音で発信「楽衆玄達」出発  
第3弾配信 弊社主催第5回異業種交流会開催  
第4弾配信 福井商業・北野野球部監督のお話  
第5弾配信 メイク・ア・ウィッシュと私の夢  
第6弾配信 「夢は必ず叶うのだ」の講演会  
第7弾配信 盛和塾の全国大会に参加して  
第8弾配信 ザ・リッツ・カールトン・ホテル  
第9弾配信 弊社FX事業開始記念講演会開催  
第10弾配信 伊那食品工業・会社見学会に参加  
第11弾配信 山一證券最後の社長さんと面会  
第12弾配信 新横浜ラーメン博物館へ初訪問!  
 
第1弾 (H18年7月5日配信)
(株)車輪庫・籏禮会長の生死の話

  籏禮泰永(はたれい・やすなが)さんは1999年にハウジンブ会社を破綻させた経験の持ち主です。日本商工会議所会頭賞を受賞したほどの技術をベースにユニークなアパートを全国展開していました。それはお城のような外観のアパートで、室内に階段や通路があり、通路の左右に個室が並んでいます。各自が個室に入るところが外からは見えないようになっていて、特に女性の評判が高かったそうです。外部からの進入者が入りにくい構造だったのです。各地から建設要請の葉書が届きましたが、遠方までは手が回らず、お断りの手紙と一緒にパンフレットを入れて送り返す費用もばかにはなりませんでした。
その後、各地の工務店と提携するようになり、直営の5店舗も含めて売上げ25億円くらいにまでなっていました。店頭公開も公言し目指していましたが、その目前で取引先2社が倒産し、信用不安から業績が悪化。金融機関の強硬姿勢に業を煮やして自己破産を決意、多大な債務を抱えたのです。籏禮さん37歳の時のことです。
弁護士さんと相談した後、籏禮さんはホテルの一室に戻りました。窓から見える空は雲一つない快晴。そして聞こえる蝉の声。籏禮さんは逃げたくなり、自殺の衝動にかられました。浴衣の紐を手に取り、どこにぶら下げようかと見上げた時、エアコンから冷たい空気が流れていることに気づきます。誰かの工夫と努力のお陰で、こんな熱い日にも室内では涼しくいられるのだなあ、と思ったのです。そう考えると、世の中の物は全て先人のお陰であることに思いが至りました。全てのものが有難く思えたのです。よくぞ先人たちが工夫して作ってくれたものだ。そう考えてみると、いったい、自分が生まれてきた使命とは何なのだろう?
自分も何か後世の人が喜ぶもようなものを残したいノ、50年後、100年後先に感謝されるようなものを残したいノ、そう思うようになって、籏禮さんは自殺を思いとどまったのだそうです。
身内の応援もそんな籏禮さんを励ましてくれました。なんと倒産のわずか二ヶ月前に籏禮さんは結婚していたのです。奥様は母一人娘一人で育てられた方で、奥様が母親のところに戻ると、お母さんは一言、「離婚してはいけない」と。「事業家のところに嫁に行ったということは、そういうことも覚悟して行っているはず。だから離婚してはいけない」と。
今、籏禮さんが必死に働く理由は一つ。迷惑をかけた債権者に、もしかしたら1%でも返せるかもしれない、できれば倍返ししたい。そう思いながら頑張り、今年で7年過ぎたのだそうです。あと3年でどれだけ返せるか?
今、籏禮さんは言われます、「逃げたらいけない」と。
自己破産からわずか2年後に株式会社メンターバンクを設立。現在は数多くの企業のコンサルティングに走り回るかたわら、オリジナル自動車の開発・製造・販売を手掛ける株式会社車輪庫、そして賃貸住宅の企画・設計・施工・運営を手掛ける株式会社絆家コーポレーションを指揮しておられます。
会社・個人合わせて数十億円の負債は法的には免責になっているわけですが、「時間はかかるかもしれないが必ずお返ししたい」という姿勢を持ち「逃げなかった」ことが、再び支援を得ることを可能にしたようです。
自殺を思い止まった時のことや、家族の支援を得た時のことを話す旗禮さんの目にはうっすらと涙が見え、赤裸々な体験談に心が揺さぶられました。
「逃げないこと」ノそうすれば、また活路が開かれてくるのでしょう。
第2弾 (H18年7月20日配信)

福井を音で発信「楽衆玄達」出発

  みどりの黒髪 情けに添ひて
  むすぶ柳の 糸ながく
  風になびくは 芙蓉の花か
  たわむれ遊ぶ 姫御前の てまりうたごえ 華やかに
  北国の 北の庄には めでたかり

九十九橋から 眺むれば
峰の松風 ふくいくと
足羽の山や 足羽川
千代もと祈る しゃく(漢字が携帯にない)谷の 緑の石垣 影さして
今 いくたびか 春にあふべき

福井の人なら馴染みの深い地名がポンポン出てくるこの詩は杵屋栄美ゆきさん作「北の庄~お市の方」の最初の部分です。
この詩をはじめ福井にまつわる文化や自然を謳った11作品が曲となり、エレキギター、サックス、キーボード、ドラムなどの洋楽楽器、そして尺八、篠笛、太鼓、小鼓、三味線などの邦楽器楽で演奏されています。しかも福井を拠点に活動している音楽家たちで結成されのがこのバンドで、その名は「楽衆玄達(がくしげんたつ」。
先ほどの11曲が収められているCDが4月に発売となり、人気化しているようです。
実は初めて聞いたときから気に入ってしまったのがこの私。きっと若い人でもそのポップな曲調には結構はまるのではないでしょうか。
もともと福井の人は宣伝が下手だとはよく言われることです。粘り強くて努力する県民性だと思うのですが、あまり表に出ることを嫌い、自分をアピールすることが苦手です。ただ、これからの時代それだけでは損を見るだけかもしれません。 「福井を音で発信」することを志に結成されたこのバンド、県民としては大いに応援したいところですし、今後の全国的な活躍を祈りたいものです。(公式ホームページは http://www.tconsort.com/gentatsu/

第3弾 (H18年8月5日配信)
弊社主催第5回異業種交流会開催

  弊社主催第5回福井IPO異業種交流会におけるナックグループ海道代表のお話の要旨です。
  私は昭和5年に五人兄弟の長男として生まれました。14歳の時に父親が急死し、その上、母親は昭和20年に病気になり、一家6人の生活の全てが私にのしかかってきました。
  母親になんとしても良くなってもらいたくて、お金もないのに19歳で52坪の家を建てました。材木屋の親父さんが「君に惚れた、力を貸そう」と引き受けてくれたのです。この時の感動は今でも忘れられません。手を合わせて涙したことを、昨日のことのように覚えています。
  借金を早く返そうと頑張りましたが、いかんせん、病気の母親、ひもじがる幼子を見ると辛く、一家心中を考えたこともありました。
  昭和31年、我が家のナベやバケツの修理をしたことからブリキ屋になり、手押しポンプが故障したことから水道屋に、そしてラジオが壊れて電気屋になりました。
  カールマイヤー社の社長の言葉、「良い製品を作れば立地条件は関係ない。どんな僻地でも世界中からお金をもって買いにきてくれる」は、田舎で事業をやっている者にとっては励みになりました。
  また、小学校5年生を出ていない松下幸之助さんが、「自分に足りないものは多くの他力を借りる」としていたことからも学ばせてもらいました。
  我が家の木桶の風呂が壊れてポリバスを設置した際に、その原価が定価の10%でも利益が出ると知り、昭和45年自宅の裏でポリバスなどの製造をし始め、翌年に株式会社海道工業を設立しました。
  数々の失敗の経験から知ったことは、「成ったものは必ず落ちる時期が来る」ということと、「値下げしたら元には戻らない」ということです。健全経営とは「金も資源もない中で、合理的に徹底した利益追求をすること」で、これで良いという甘えは絶対に排さなければならないということです。
  この変革の時代に参考とすべきはユダヤ人や華僑の生き方であると思います。何千年もの昔から幾多の戦乱・迫害から逃れ、生死を彷徨い、土地も家も国も捨てて、したたかに生きて子孫に引き継いで生きているユダヤ人や華僑の生き方を研究すべきでしょう。
  日本は世界一の金持ちかもしれませんが、世界戦略やポリシーを持っておらず、未だに一国繁栄主義を謳歌しているようです。長期ビジョンや資源を持っていない国ですから、簡単に料理されてしまいます。
  これから当社が生き残っていくためには、生産工場を持たないメーカーに変身する必要があると思っています。
  経済観念を持たない社員が増加しているようで、ただ時間が経てば、給料は年齢とともに増えていくものと思い込んでいるようです。まるで社会主義へと進化しているかのようです。法律上は会社が悪者で、社員は全員被害者であり、社員の自己過失や自己責任を会社が問うことができないようになっています。ですから未然に防ぐ認識と解決の努力が必要であると思います。
企業とは利益追求の上に成り立つものです。如何に効率よく目的を達成するかは、経営者の判断によるところが大きいでしょう。世の流れに順応できる企業体質作りと無理のない経営に徹したいと思います。ユーザーのニーズを如何に早くとらえ応えていくか、流通の改革や新製品の開発、あるいは生産の合理化により、小回りのきく経営に徹したいと思います。
  逆境を生きるにあたり、「知らないこと」を逆手に挑戦し続ける中で、知らないうちに小さな大メーカー、オンリーワン企業に成っていたというのが実感です。これまで可愛がって頂きました数多くのお客様、そして苦難の道を支え続けてくれた我が妻、家族、そして従業員の皆の力強い支援と協力があったからこそ、成し遂げなれたものだと思っています。
  これからも、市場が求めるものを探し、私たちが持っている技術や資源を生かしたモノ作りでオンリーワン企業でありたいと思っております。
第4弾 (H18年8月20日配信)

福井商業・北野野球部監督のお話

  福井商業高校野球部の北野監督は監督人生が既に39年目に入ってきているそうです。「鬼監督」と言われてきた同監督ですが、昭和52年のチームは不思議と叱ったことがないそうです。それくらい賢い選手がそろっていたチームで、例えば1・2年の選手が炎天下で練習をしている際には飲み物等の差し入れをするような先輩だったのだそうです(普通は自分の子分のように使うものですがノ)。
  また、平成8年夏の甲子園大会ではベスト4になりましたが、それまでは史上最低のチームと評価されていたのだそうです。監督としてはなぜ、そのような成績を残せたのか、ずっと謎のままだったのだそうです。ある時、息子に勧められて読んでいた本に「精神的レベルが高いと運がつく」を書いてあり、「これだ!」と思ったのだそうです。
  そのチームはキャプテンを始め選手が、学校の校門などを自主的に雪かきするようなメンバーで、特にキャプテンは成績もオール5で、EQ(心の知能指数)が高かったようだと監督は回顧されていました。そのキャプテンは、こう語っていたのだそうです。「一年生の時から思っていたことがあって、それはもしキャプテンになったら、つまらないことで監督に怒られないようにしょうということでした」と。何でも監督が注意したことをノートに全て記録していたというのですから、驚きです。
  当時、福井商業がPL学園に勝った試合を見ていた星野監督は、「何て頭の良い配給をするのだろう」と感心してたそうです。
  そのチームは監督の誕生日には、わざわざ皆で「ハッピーバースデー」を歌って、ノック用の手袋をプレゼントし、「これで僕たちを鍛えてください!」と言ったのだそうです。
  そういう「精神的レベル」の高いチームだったからでしょうか、運も味方にして素晴らしい成績の残せたのかもしれません。もちろん、運だけではないでしょうが、運をも味方にするような振る舞いも大事なのでしょう。
  そういえば、国際ロータリー第2740地区、地区IM記念講演会でお話をされた江島良介先生(唐津市立加唐小中学校校長)の言われた言葉が思い出されます。先生は神埼町立神埼中学校時代には剣道部を男子三回、女子一回、全国大会優勝に導き、三瀬村立三瀬中学校時代には、男子で全国大会を二回制覇されている方です。
  江島先生はこのようなことを言われていました。
  「強いチームというのは運があります。運は自分で作るものだと、私は子どもたちに言います。審判が、一本と手を挙げるか挙げないか、微妙な判定をしなければならないとき、どちらにするのか。挙げてやろうと思うのか、絶対に挙げてやらないと思うのか。このチームはマナーがいいんだ。感心するくらいマナーがいい。そういうように審判が思ってくれたら、それは助かる。そして、相手チームがこのチームに負けだったら仕方ない、と思ってくれたらこれはありがたい。だから日常生活、会場でのマナー、挨拶も、きちっとうやっておこうと。そんなことが自分の運をつくっていくことになるのだという話を、子どもたちにしています」
  北野監督のお話と少し通じるところがあるのかなと思って、ご紹介させて頂きました。
  いずれにしても、運を招き寄せるような日頃の行動でありたいと思わされました。

第5弾 (H18年9月5日配信)

メイク・ア・ウィッシュと私の夢

  私が「メイク・ウィッシュ」というボランティア団体のことを知ったのは十数年前のことです。
新聞記事で読んだのが先か、知人から聞いたのが先立ったのかは忘れましたが、以来、ずっと気になる存在です。
難病と闘う子供たちの夢を叶える団体で、1980年にアメリカはアリゾナ州で生まれたのだそうです。その活動は世界30ヶ国に広がり、92年に日本法人「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」が誕生したのだとか。過去にその活動状況がテレビ番組で特集されたこともあり、少なくとも私は2回見たことがあります。
新聞にも取り上げられたことがあり、これまで見つけた記事は大事にとってあります。
  例えば「憧れの日本人メジャーリーガーに会いたい」という夢を持っていた男の子、「自分の絵本を出したい」という夢を持っていた女の子、そんな子供たちの夢を叶えるお手伝いをするのが、この団体で、番組や記事ではその感動的な模様が報じられていました。日本では昨年までに852人の子供たちの夢が実現されているそうです。
  いつかは主体的にお手伝いしたいというのが私の「ウィッシュ」になっていて、北陸の場合は金沢に支部があると聞き、数年前にボランティア登録をさせて頂きましたが、これまでのところ一度もお呼びがかかったことがありません。
  やはり北陸ではあまりニーズがないのでしょうか、積極的に病院等に働きかけていないのでしょうか、あるいは金沢が主体で福井にまでは手が回らないのでしょうか。
  そんな思いでいる中、今年の8月20日に大野寿子さんという方の鼎談を新聞紙上で見つけたのです。
その時に初めて大野さんが「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」の事務局長であられることを知りました。
そして、著書『メイク・ア・ウィッシュの大野です』を出しておられるということも。
  早速、購入して読ませていただきましたが、子供たちが実際に夢を叶えていく様が感動的に描かれていて、ますます活動に対する興味を深めることになりました。
  新聞の鼎談で大野さんはこのように述べられています。
「学校で講演を行った後に、子供たちからもらう感想文には、いつも二つのことが記されています。一つは、夢を叶えた子供の喜びを、わがことのように喜ぶ声。もう一つは、『私も誰かの役に立ちたい』という意思。もちろん私たちには、自分さえ良ければ、という気持ちも持っている。でも、人の喜ぶ姿に触れて嬉しいと感じる心は、きっと私たちのDNAにも刻まれている。そう確信しています」と。
私もまた両面性を兼ね備えてはいますが、できるならば最終章では人のお役に立つことに力を入れたいと思っています。
  新聞の鼎談の最後に大野さんはこうも述べておられます。
「私は自称”種まきおばさん”なの。子供たちの夢が、いつか大きな実をつける日を信じて、希望と笑顔の種をまくのが、私の仕事だから」  

第6弾 (H18年9月20日配信)
「夢は必ず叶うのだ」の講演会

  8月30日(水)、「第4回高等学校校長会と経済人との懇談会」において、『ボクは炭焼き職人になった』の著者・原 伸介さんが「若者よ 夢は必ず叶うのだ ~天才を育む至福の教育術」というテーマで講演されました(会場:福井県自治会館)。
  以下、その要旨の一部をご紹介いたします。
  炭焼きを始めて11年目に入りました。自分自身で願った夢は全て叶ってきました。
一つも叶わなかったことはありませんでした。でも、それは決してボク自身の力ではありませんでした。
  私は1972年に横浜で生まれ、2歳の時に横須賀に引越してきて、18歳までそこで過ごしました。家から海までは自転車で20分で、すぐ裏に里山がありました。
  それがボク自身の全ての原点でした。
  よく聞かれることが「どうして炭焼きをやったのですか」ですが、ボクはこの山が好きで好きで仕方ありませんでした。トンボを追いかけたり、カエルを捕まえたり、ザリガニを釣ったり、忍者ごっこをしたりして裏山で遊んでいました。
  ボクらの世代はベビーブームで、当時通っていた中学校の全国生徒は1800人もいました。余りにも人数が多いので、ボクが中学2年の時に新しい中学校ができたのです。それは裏山をつぶして、まっ平にしてできた中学校でした。
  新しい校舎が体育館を友達は皆喜んでいましたが、ボクは全然嬉しくなかったのです。ボクにとって裏山は母親のように育ててくれた存在であっただけに、何もできなかった自分自身に悔しい思いがしたのです。その時に立てた誓いが、いつかこの裏山に恩返しがしたいということでした。 高校に進学してから、将来の進路希望を聞かれるのですが、絶対に山の中で暮らしたいという思いだけがあったので、子供なりに考えて「仙人」と言っていました。
  でも周りに一人として「いいじゃないか、それで」と言ってくkれる人はいませんでした。皆否定で、「何言ってんだ、バカなこと言ってないで、現実を見なさい」とか「人生をなめんなよ」という反応でした。
  その時たった一人でもいいですが「仙人、いいじゃないか、なれるよ、頑張れよ」
と言ってくれる大人が一人でもいたなら、孤独を感じずにいられたのかと思うのです。
  その時、もう一つの決め事をしました。それは、自分が今度大人になった時に、このような夢を持つ子どもの背中を押してやれる、そういうかっこいい大人になってやろうと決めました。
  この夢も30歳の時に叶いました。長野県のある高校から、講演依頼があったのです。
体育座りをしている子供たち、そこに15年前のボクがいるのです。講演に来てくれた大人は何人もいたけれど、勇気と夢を与えてくれるような話をしてくれる人は一人もいませんでした。
  ボクはここぞとばかりに燃えに燃えました。「みんな夢は叶うんだよ。大人の言うことなんで聞かなくていいぞ」と言うと全員が顔を上げました。後ろに並んでいた先生方は腕を組んで下を向いてしまいました。
  一時間はあっという間でした。最近の若者は夢がないなんて言いますが、全然うそです。最近の若者に夢がないんじゃない、最近の大人が夢を持って生き生きと生きていないから、その背中を見て若者たちが失望しているのです。
  ですからこんなバカが一人前に立って「夢は叶うんだよ、絶対に叶うぞ、オレを見ろ」
と言うと、ものすごく興奮するのです。
  この後、原 伸介さんによる炭焼き職人時代の修業や独立の話がありました。迫真に迫る内容で1時間半があっという間に過ぎました。詳しくは同氏の著書『ボクは炭焼き職人になった』の修業編と独立編の二冊をお読みください。感動的な内容になっています。
第7弾 (H18年10月5日配信)

盛和塾の全国大会に参加して

  盛和塾の全国大会は二日間の日程で国立京都国際会館で開催されましたが(9月19~20日)、今年も一日につき四人の塾生が経営体験を発表し、それについて稲盛和夫塾長がコメントをするという形式となっていました(二日目の最後には塾長講話もありました)。
  選ばれた皆さんですから、どなたの発表も素晴らしいものでした。それぞれが苦難や困難を乗り越えてきた過程をお話下さいましたので共感を呼びましたし、多かれ少なかれ経営者は同じような悩みを持っているものだと思わされました。
  岐阜から来られたSさんは四代目の社長です。三代目の父親がバブル期に多くの事業に手を出し多角化したのはいいのですが、その後、採算が悪化し多くの事業が撤退を余儀なくされます。潰れるのではないかとの噂が流され、奥さんも入院。泣きたくなるような毎日だったそうですが、人生の本を読んだり、稲盛塾長のテープを聞いて発憤。「至誠天に通ず」という思いで、公職を全部断わり、会社の再建に乗り出します。
  それ以前に給与体系を上場会社に学び変更してみたのですが、お金だけでも駄目であることを知り、社内ベクトルの統一をなすために「アメーバー経営」の導入を決断します。社員の物心共の幸せを目指し、部署ごとの細分化した収益管理を徹底させます。こういった取組みは眠っていた社員のパワーを発揮させ、自分達で工夫して経費節減をするようにまでなりました。まさに、それまでのマイナスからプラスのスパイラルへ、活力のある組織へと変貌を遂げたのだそうです。
  塾長からのコメントは以下のようなことでした。
  経営者と従業員の間には必然的に大きな意識の差がある。
経営者からすれば従業員に頑張って働いてもらい、良い会社にしたいと思うものだ。
一方、従業員からすれば、できれば楽な仕事で多い給料を欲しいと思うのも当然だ。
ここに意識の差があり、悪い労使関係は会社をますます悪くするものだ。
この差を少なくするために昔から経営者は「慰安会」や「花見の会」を開いたり、あるいは「慰安旅行」に連れて行ったりしていた。
これらは経営者が労使関係を中和するために考えたことだ。
ただ、こういった方策は単なる「ご機嫌取り」であり限界がある。
やはり一番大事なのは、経営者は社員のことを考え、社員は経営者のことを考え、同じ心(=哲学)を共有してベクトルを合わせることだ。
哲学(フィロソフィ)を共通にして、考え方の方向性を合わせることが大事だ。
ただ、哲学というものは、一度学んだからそれでいいというものでもない。
たちまち形骸化してしまうのが常で、絶えず学び続ける姿勢が必要である。
  以上のようなことを稲盛塾長はお話しされました。
  それぞれの経営者の皆さんは筆舌に尽くしがたい苦労もされながら、それでも諦めずに立ち上がり、素晴らしい経営を実現されているようです。
  同じような悩みを皆さん抱えておられたということが分かっただけでも大変に励みになりました。努力にも終わりはなく、課題にも終わりはないものでしょうが、また頑張っていくしかないのだと思いました。

第8弾 (H18年10月20日配信)
ザ・リッツ・カールトン・ホテル

  10月6日(金)の朝、私は東京へ向かう車上の人間となっていて、ワクワクしていました。
  知人から案内をもらい、東京は汐留の日通本社ビルで開催される「Legendary Service 伝説と感動を生み出すサービス ザ・リッツ・カールトン・ホテルの哲学」に参加するためです。
  これはザ・リッツ・カールトン・ホテルの副社長であるダイアナ・オレック女史をアメリカから迎えて行われるもので、日本通運と日経ベンチャー経営者クラブの協同企画として行なわれるものでした。
  言わずと知れたザ・リッツ・カールトン・ホテルは日本でも有名な存在で(大阪にあります)、経営品質ではよく引き合いに出されます。
  料金は結構高いようですが(私はまだ泊まったことがありません!)おもてなしの心が素晴らしく、リピーターでいつも一杯だとか・・・。(経営品質を学ぶグループで、わざわざ泊まりに行くコースも以前ありましたっけ)
  本社は米国メリーランド州にあり、世界20ヶ国に61のホテルを展開しているようです(シティホテル38、リゾートホテル23)。1983年、ザ・リッツ・カールトン・ボストンとリッツ・カールトン名称使用権購入と同時に設立となり、1ホテルから世界各国に61ホテルを運営するまでに成長を遂げたわけです。
  私は歴史ある名門企業とばかり思っていましたが、まだわずか23年しか経っていないことが驚きです。
今後はヨーロッパ、アフリカ、アジア、中東、アメリカにて更なる展開を予定しているようです。当日は、ザ・リッツ・カールトン・ホテル日本支社の高野 登支社長もご挨拶されたのですが、同支社長も最近では雑誌のインタビューや講演で引っ張りだこのようです。
  今回は本場アメリカからCS(顧客満足)統括責任者が来てのアジアでは初めての「レジャンダリー・サービス」セミナーとなりました。
  弊社においても、新・経営理念を発表しようとしている今、是非ここは本物の精神から学ばせていただきたいとの思いから喜び勇んで上京したわけです。
  実際に講演が始まって気付いたことですが、当然ですが、講師は全て流暢な英語で(!)話され、私たちはイアホンから流れる同時通訳に耳を傾けるわけですが、耳の内と外から別々の声が聞こえてきて、最初は何か集中できない感じもありました。
  加えてパワーポイントで示される資料が全て英語であったことにも、多少とまどいました(日本語に訳してあれば嬉しかった!)。
  でも講師のダイアナ副社長さんは明るくてバイタリティにあふれる方で、途中の休憩をはさみながらも4時間近くの講演会並びに質疑応答を元気に務められていました。
  今回の講演で初めて知ったこと、それはザ・リッツ・カールトン・ホテルが二度もマルコム・ボールドリッジ・アオード(日本経営品質賞が模範とした賞)を受賞していたということです(1992&1999年)。経営品質を学ぶ者として恥ずかしいのですが、知りませんでした。それにしても、さすがと言うべきか、やはりと言うべきか…。
ザ・リッツ・カールトン・ホテルで有名なのは、その「クレド」です。
全従業員が常に携帯していて、行動の拠り所としているものです。
そこの「クレド」にはこうあります。
「リッツ・カールトンはお客様への心こもったおもてなしと、快適さを提供することをもっとも大切な使命とこころえています。私たちは、お客様に心あたたまる、くつろいだそして洗練された雰囲気を常にお楽しみいただくために最高のパーソナル・サービスと施設を提供することをお約束します。リッツ・カールトンでお客様が経験されるもの、それは感覚を満たすここちよさ、満ち足りた幸福感、そしてお客様が言葉にされない願望やニーズをも先読みしておこたえするサービスの心です」
「モットー」は「私たちは紳士淑女にご奉仕する紳士淑女です」であり、12の「サービス・バリューズ」があります。
「私はリッツ・カールトンの一員であることを誇りに思います
1.私は、強い人間関係を築き、生涯のリッツ・カールトン・ゲストを獲得します…」
これが12まであり、別に「サービスの3ステップ」というものも制定されています。
講演を聞きながら思ったことは、何か京セラの稲盛名誉会長や加賀屋の小田会長が言われていることや、『ビジョナリーカンパニ―』の内容と共通するところがあるということでした。
要は続けること、徹底することが大事なのです。オレック氏も“Consistency is the key”と語っておられたように、「継続が鍵」なのでしょう。
最後に講演の終わりで女史が言われた印象的な言葉をご紹介させて下さい。
“No matter what your position、you touch your brand several times a day、every day”
「どのような立場であれ、あなたはあなたのブランドに日に何度か、そして毎日、関わっているのです」
日々の私たちの行動がブランドを上げることにも、下げることにもなっていることを自覚しなければならないと思わされました。
さあ、私たちも新しい経営理念を我が志として進んで参りましょう!
第9弾 (H18年11月5日配信)
弊社FX事業開始記念講演会開催

  アメリカは世界中から、あたかも真空掃除機のようにお金を吸い集めている。
パソコンを立ち上げると、〝Windows XP〟と出てくるが、あれはマイクロソフト社の最高経営者であるビル・ゲイツからのお礼の言葉だ。我々は同社のソフトをお金を払って使っているわけだ。世界中の人々がパソコンのスイッチをオンする度に、この人のポケットにお金が入るようなシステムが出来上がってしまっている。
パソコンの横に〝intel inside〟というシールが貼ってあるが、あれはパソコンのハードウェアを作っているインテル社のことで、インテルにせよマイクロソフトにせよ、IT産業の中核が経済を引っ張っていく構造が1990年代にアメリカで出来上がったのだ。
その間、経済の構造が変わり、経営者の質が変わった。
世界一の金持ちがビル・ゲイツで資産は5兆数千億円、2番目がウォーレン・バッフェットで著名な投資家、3番目がポールアレンでビル・ゲイツと一緒にマイクロソフトを始めた人、4番目がマイケル・デルでデル・コンピュータの経営者、5番目がロレンス・エリソンでオラクルの経営者、その後がウォルトン一族でウォル・マートというスーパーマーケットの経営者が亡くなって遺産相続を受けた人。そして、その少し下にくるのがグーグルの経営者の二人だとか、イーベイというインターネット・オークションをやっている会社の経営者がきます。
これまで我々が考えていたアメリカの大金持とは鉄鋼王カーネギーだとか、石油王ロックフェラー、自動車王ヘンリー・フォードとか、そういう人達だった。もちろん、そういう人達は今でも大金持として存在しているが、そういう人達をはるかに凌ぐ新しいビジネスマンがこの15年間でアメリカに出現したということだ。
日本が中国の方を向いて、現地生産、現地生産と言って価格破壊を続けていた時代に、こういう現象が起きていた。この15年の間で、日本とアメリカの経済構造はガラッと変わってしまった。
一方、日本の大金持ちのリストを見ると(日本では1番でも世界では107位だが)、1番、8番、16番、18番、22~25番の人達は皆消費者金融の経営者だ。他には製造業の人がまだまだいるし(YKK、船井電機)、不動産関係の人もいる(糸山氏、森ビル)が、IT産業の人がアメリカほど多くはない。IT関係はソフトバンクの孫さん、楽天の三木谷さん、光通信の重田さん、任天堂の山内さんぐらいだ。世界の大金持746人の内、日本人はわずか26人。
今後、IT業が日本経済においてもっと中心的な役割を担っていくかどうかが注目される。
第10弾 (H18年11月20日配信)

伊那食品工業・会社見学会に参加

  長野県伊那市にある伊那食品工業の噂は以前から聞いていました。48期連続増収増益だとか…。顧客満足度、そして社員満足度の高い企業だとか…。
  関心があったところに、知人から見学会のお知らせが舞い込んできた時には参加を即決しました。
  11月6日(月)の朝8時に東京・新宿はスバルビル前で集合。当初は定員35名だったところに応募が殺到、90名近くになったためバスを2台に増台することになったそう…。
  中央高速が大幅改修工事ゆえの渋滞のため、予定より1時間遅れて伊那食品工業に到着しました。
  早速、寒天レストラン「さつき亭」で昼食。寒天や海藻を使ったヘルシーな食事を堪能させて頂きました。
  続いてホールに移動し、井上 修社長様のご講演を拝聴しました。
  同社は1958年に設立。業務用寒天や、家庭用寒天の大手メーカーで、国内シェアは80%を占めるとか。
  同社は現会長である塚越 寛氏の類い稀なるリーダーシップで飛躍を遂げた会社です。
  塚越氏は高校生時代に大病を患い、3年間ベッドで寝込む日々だったそうです。その間、本を一生懸命読んだそうですが、中でも一番多かったのが経営に関する本で数百冊を読破されたのだとか。
  高校を中退して就職したのが製材会社の赤穂工業。その子会社で経営不振に陥っていた伊那食品工業へ社長代行として派遣されてからが快進撃の始まりでした。
  社是は「いい会社をつくりましょう」で、「いい会社」とは、会社を取り巻く全ての人々が、「いい会社だね…」と言って下さる会社で、社員自身が会社に所属することの喜びをかみしれられるような会社のことだそうです。
  塚越会長と上甲 晃氏の対談が月刊誌『致知』2006年1月号に出ていますが、そこで会長は二宮尊徳の言葉を紹介しておられます。
  「遠くをはかる者は富み/近くをはかる者は貧す/それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う」と。
  井上社長様の講演を拝聴したホールには百年カレンダーが貼ってありました。つまり百年先を考えて、今の経営の考えているのだそうです。今年創業48年目に入ったばかりの同社が創業百周年のことを想定して今の手を打っているというのですから驚きです。
  先ほどの対談で塚越会長は経営理念について、このように語っておられます。
  「トップの理念を全社に浸透させるためには、凡事を徹底する、当たり前のことを一所懸命続けて徐々に浸透させていくしかないような気がします。私自身、こういう会社を目指すんだ、ということをとにかく社員に語り続けてきました」と。
  塚越会長から次期社長の使命を受けた井上社長様は、誠実で実直な方というような印象を受けました。沖縄ご出張のため、お会いできなかった塚越会長は、噂によればカリスマのオーラを発している方だとか…。
  是非、一度お会いする機会があればいいな、と思いながら会社を後にしました。理念から始まる、哲学から始まる、一人から始まる。そのような思いを胸に秘めながら…。

第11弾 (H18年12月5日配信)
山一證券最後の社長さんと面会

  弊社がこの11月から新しく始めた事業であるFX(外国為替証拠金取引)。
システムをお借りしている先であり、注文を取り次いでいる先であり、いろいろと懇切丁寧にご指導下さっているのが日本ユニコムさんであり、そのグループ会社であるエフ・エックス・ブラットフォームさんで。
そして、同じユニコムホールディングス傘下にあるのが日産センチュリー証券さんで、その社長が野澤正平さんであることは新聞記事か何かで読んで知っていました。
日本ユニコムさん側との会話の中で、その話題となり、「是非、一度会ってみたら」という話になりました。
山一證券最後の社長さんであり、記者会見で社員さんをかばって泣かれたこと、会社廃業後も社員さん達の再就職のためにご尽力されたことなどは存じあげていました。
そのようなことから、お会いできるのは大変に光栄だと思い、ユニコムさんに間に入って頂いて私が上京する日に面談をセットして頂きました。
そして11月27日(月)の朝に面談は実現しました。いろいろとお話を伺いましたが、やはり社員さん方も一つの「ブランド化」している野澤社長さんをうまく活用されていることが分かりました。
新人研修が終わると、社長さんと二人で記念写真を撮ることにしているそうですが、社員さんの中にはそれを持ち歩いてお客に見せる人もいるのだとかノ。お客さんの中にも知っている人は知っていますから、「会ってみたい」ということになると社長さんは挨拶に行かれるのだそうです。
ここで詳しくは書けませんが、それまでは実績がほとんど挙がらなかった社員にしたアドバイスのこと、そしてその社員が最近になって大きな仕事をして嬉しかったこと。
野澤社長自身がまだセンチュリー証券の社長だった頃の話で、社員さんを連れてトップセールスをされた時、ある会社については回りの誰もが「あそこは行っても無駄」と言うのだそうです。それでも訪問してみたところ、後で「瓢箪から駒」というような大きな仕事になったというような話。野澤社長さんは言われるのです。「営業とは、とにかく人様の前に立つこと、そして話をすること」と。そうすれば「どこでどういう話につながるかは分からない」と。
実際には本当にあった具体的な話を伺ったので、とても説得力がありました。
そんな人望とブランド力のある野澤社長の元には講演依頼も数多く来るそうで、昨年は45回、今年も30回位既に各地へ飛び回っておられるようです。
野澤社長さんは今、二つの使命を自覚しておられるようで、一つが日産センチュリー証券の若手の育成、そして二つ目が全国の若手経営者のためにできることをするということだそうです。
そんなことで、主に各地の商工会議所からの要望で講演される時のテーマは「我が人生と営業」。実は今回、野澤社長さんとお会いすることの一つの目的は、明年3月の我が社の全社員大会でのご講演を依頼すること。快くご応諾頂き、日にちだけ決めさせて頂くことができました。
もうそれそろ失礼しなければと思い、記念写真をお願いした後に会社を出ると一時間半も経っていることに気付きました。何とも楽しくて充実の時間でした。
第12弾 (H18年12月20日配信)

新横浜ラーメン博物館へ初訪問!

  噂にはよく聞いていた「新横浜ラーメン博物館」。オープンは1994年3月ということですから、もう12年も経つとはノ。当時、オープン早々大人気となり、94年度日経優秀製品サービス賞優秀賞を受賞しているそうです。
そんな博物館にようやく行くことができました。
きっかけは、そこから歩いてすぐ近くの会社訪問。知人から紹介を受けて先方の社長さんとのアポイントが午後5時半からとなり、お話が終わったのは7時半頃。自然と夕食の話になり、博物館でラーメンを食べることに。  
ただ、驚いたのは相手の社長さんがまだ入ったことがないという点! そんな近くの場所で会社を経営されていながら、(近いがゆえに?)入られたことがないとはノ。ネックは多分、300円の入場料。ラーメン代とは別に毎回300円を払う気にならないのは当然と言えば当然かもしれません。 それに会社の近くに、いつで行列ができているラーメン屋さんがあるそうです。そのお店も教えてもらいましたが、やはり今回の目的はラーメン博物館。 
入場料を払って入館すると、そこは昭和33年の町並み(だそうです)。古びた階段を降りて地下2階に降り立つと、そこはノスタルジックな空間でした。ちょうど紙芝居をやっていて、お客さん方が見物中。 どの店に入るか迷ってしまいましたが、まずは博多のとんこつラーメンを。おいしいお味で満足。
ただ、皆で話したのが、「ミニラーメンが品揃えとしてあるとはいえ、結構大きめのサイズと料金なので、できればチケット1枚で3杯のミニラーメンが食べれるようなシステムがあればいいのにね、ということでした。 一種類の体験だけではもったいないので、次は醤油味のミニラーメンを。 
今回の博物館の初訪問。念願の夢を果たしたという感じですが、地元のリピーター客を呼び込む工夫があったらもっといいのかも。なぜなら、歩いて数分の地元で働く人が今回、初めて行くことになったというのですから。 ネックの入場料、この撤廃は難しいのでしょうか?