トップエッセイコース PC用 2007年(H19)7-12
担当者 弊社社長 益永

…出会った経営者、感動した事柄や、折々の思いを執筆

     
第12弾配信 「米倉斉加年の世界」展へ  
第11弾配信 角田光代トークショーに参加して

 

第10弾配信 ドキドキのイメ・チェン  
第9弾配信 おもちゃコレクター北原照久さん  
第8弾配信 アチーブメント・青木社長さん  
第7弾配信 福井証券協議会で韓国ツアーへ  
第6弾配信 魅惑の「福島正伸さん講演会」  
第5弾配信 幻冬舎・見城社長のテレビ出演  
第4弾配信 南部直登さんNHK番組出演!  
第3弾配信 「大連・旅順視察旅行」報告記  
第2弾配信 岩堀先生&ミネハハさんお話と歌  
第1弾配信 あのリッツ・カールトン東京へ  
 
第12弾 (H19年12月20日配信)

【トップエッセイコース12 担当:弊社社長 益永】
件名:米倉斉加年の世界」展へ


  米倉斉加年さんの絵は怪しい雰囲気を発しています。
  イタリア・ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞受賞作である「多毛留」。1987年より中学1年国語教科書に採用されている「おとなになれなかった弟たちに…」。それに最新作である「トトとタロー」。
  それに、来年の絵暦(カレンダー)用の新作も展示されてありました。
  「おとなになれなかった弟たちに…」は自作の絵と文で作られた絵本です。
  12月2日(日)の午後2時から「朗読会」もあると知り、まずは展示の絵を見てから参加しました。
  米倉さんのお話は約1時間でしたが、絵本の朗読は最後の10分もかからない時間で、それまではよもやま話となりました。主に恩師・宇野重吉さんの話が多く、師弟関係の逸話を色々とご披露されました。
  「おとなになれなかった弟たち…」は、戦争悲劇を体験した米倉さんの平和への思いが込められているようです。
  本の見開きに「母に」とありますが、父親が不満げだったと、米倉さんは語ります。ですから父を見送った際に、棺桶の「父に」と記した本を入れたのだそうです。
  米倉さんの弟は「ヒロユキ」。太平洋戦争のまっさいちゅうで、毎晩、防空壕で寝る毎日。食べ物が十分になかったので、母は子供に食べさせて、自分はあまり食べません。そのためおチチが出なくなり、オモユを飲ませたり、ヤギのミルクを買いにいって飲ませていました。
  当時は甘いものは全くなく、弟のミルクが飲みたくなってしまいます。そこで何回かミルクを盗み飲みしてしまいます。
  弟はかわいくてしかたがないのですが、飲んでしまったのです。
  母に連れられて(父は戦争に行っています)疎開したのですが、やがて弟は病気になってしまいます。
  村から離れた町の病院に入院するのですが、十日間くらいしてから弟は亡くなります。
  「暗い電気のしたで、小さな小さな口に綿にふくませた水を飲ませた夜を、ぼくはわすれられません。泣きもせず、弟はしずかに息をひきとりました。母とぼくに見守られて、弟は死にました。病名はありません。栄養失調です…」
  最後はこう締めくくられます。
  「弟が死んで九日後の八月六日に、ヒロシマに原子爆弾が落とされました。その三日後にナガサキに。そして六日たった1945年8月15日に戦争は終わりました。ぼくはひもじかったことと、弟の死は一生わすれません」

  朗読された時の米倉さんの声は重く深かったのです。

第11弾 (H19年12月5日配信)

【トップエッセイコース11 担当:弊社社長 益永】
件名:角田光代トークショーに参加して


  角田光代さんは第132回直木賞ばかりではなく、その他様々な文学賞を受賞されています。例えば、海燕新人文学賞、野間文芸新人賞、坪田譲治文学賞、産経児童文芸賞フジテレビ賞、路傍の石文学賞、婦人公論文芸賞、中央公論文芸賞など。
  そんな角田さんですが、トークショーでの話しぶりはなにか文学少女のよう。一人で話すのは苦手ということで、講談社出版部の男性が聞き役として登壇されました。
  普通、作家というと夜型が多いのでしょうが、彼女は公務員のように規則的な毎日を送っているようです。満員電車に乗って通勤(1駅だけだそうですが)。7時半から仕事に取り掛かり、11時半から12時までがランチタイム。サラリーマンの昼食時間は12時からですから、混む時間は外しているのだそうです。そして5時に帰社(?)。眠たくなってしまうので朝食はあまり摂らないため、午前中仕事をしている間中、ランチをどこで取ろうかとずっと考えてしまうのだそうです。
  講談社の男性の話では、角田さんは締め切りをきっちり守ることで有名なのだそうです。
  毎月28本位の締め切りがある角田さんの仕事のやり方は、締め切りが一番早く来る仕事から取り掛かり、煮詰まってくると、次に締め切りがくる仕事へと移り、順に移っていくのだそうです(パソコンのファイルに入っている)。
  最初の仕事に戻る頃には、風通しが良くなっているのだそうです。
  頭はこんがらがらないのですか、との問いに対しては、ファイルを開いて前の文章を読めば大丈夫なのだそうです。
  角田さんは幼い頃から本が大好きだったのだそうです。母親にデパートに連れていってもらっても、「服を買うくらいなら、本を買って」というような子供だったと。
  小学1年生の時に、「本を書く人になりたい」と書いていて、作文も尋常な数ではなく書いていたのだそうです。小学1~2年で60冊位の作文帳が一杯になっていたと。
  書評の仕事と、自分が読みたい本と合わせて月に20冊位の本を読んでいる角田さん。いつそんなに読む時間があるのですか、との問いには、3頁ずつでも5頁ずつでも読んでいくのです、と答えておられました。
  電車で1駅乗る間、エレベーターの中、エスカレーターで、トイレで、鍋が煮える前に(角田さんは同じ作家の男性と結婚されているよう)、風呂で、そして寝る前にと、そうやって少しずつ読んでいけば、結構読めるのだそうです。
  常に言葉を考えてしまう角田さんは、何にも考えない時間が必要ということで、ボクシングジム(輪島功一さん経営)にもう8年間位通っているのだそうです。
  ジムに通う日は4時に会社(?)を早退(?)して行くのだとか。
  海外旅行が好きで、旅行記もたくさん書いている角田さんですが、旅行の時は日頃読めないような古典の文庫を数冊持っていくのだそうです。
  作家の生活の日常が少し窺えて、とても楽しいトクショーでした。
  講演後はサイン会もありましたので、事前に受付で購入しておいた本『八日目の蝉』を持ってサッと列に並ぶと2番目でした。
  サイン後、私の目をじっと見つめて下さり、誠実な方だなと感銘を抱きました。
  早速、ご著書を読ませて頂きます。

第10弾 (H19年11月20日配信)

【トップエッセイコース10 担当:弊社社長 益永】
件名:ドキドキのイメ・チェン


  知人:「ずっとその髪型、変わってないな。一度変えてみたら?」
  私:(ちょっと考えるところがあったために)「分かったよ!」
  知人:「じゃあ、一ヶ月以内にな!」
  私:「いや、二ヶ月欲しい」
  考えるところがあったとは、本の出版を明年1月に予定していることがあったのです(大胆不敵にも)。
  そんなことで、生まれて初めて入ったパーマ屋さん。
  私が「あの頭に丸いもの、かぶるんですよね?」と聞くと、店員さんは静かに、「あれは20年位前に無くなりましたよ」「!」(そうなんだ、と驚く私)
  「あれは何のためにかぶっていたんですか?」と今頃、聞く私。
  「あれは髪の毛を温めて、早く薬が効くようにしていたのです」
  「今はどうしてしているのですか?」
  すると、何か丸い輪っかのような物を出してきて、私の頭の上でセッティングしました。それがグルグルと回って動くのです。
  文明の利器!
  もともとは細くてクセのないパサパサの髪の毛であるため、放っておくと自然と垂れてくるのです。それが嫌なために、ヘアクリームでベタッと髪の毛を押さえていたのですが、もっとふっくら感を出した方がいいとのアドバイスでした。
  そんなことで約2時間もかけて、初めてのパーマ実験は終了。
  お次はメガネの新調です。
  永年使っているメガネも、一度変えてみようというわけです。
  これも、アドバイスによると、もっと細いメガネが最近ははやりだとのこと。
いっそ、コンタクトにしてみたら、という知人もいましたが、何かちょっと怖さが抜けきれない私。
  そんなことで、細いメガネを新調することになりました。
  はてはて、髪型とメガネを変えて、結果はどうなったでしょうか?
  もともとの顔が顔だけに、あまり変わり栄えはしませんが、
「少し若くなった感じ」というお世辞は頂けました。
  改造計画の第一段階は終了。
  あとはもっと内面を変えなくっちゃ! 一番難しいことですが…

第9弾 (H19年11月5日配信)

【トップエッセイコース9 担当:弊社社長 益永】
件名:おもちゃコレクター北原照久さん


  北原照久さんと言えば、ブリキのおもちゃコレクターの第一人者として有名です。「多くの人に見て楽しんでもらいたい」という思いから、1986年に横浜市「ブリキのおもちゃ博物館」を開館したそう。テレビ番組『開運!なんでも鑑定団』にも出演中ですから、顔を見たことがない人はほとんどいないかも。
  そんな北原さんが10月24日(水)午後6時45分から福井で講演されました。テーマは「夢の実現~ツキの10ヶ条」。主催はJAIFA(生命保険ファイナンシャルアドバイザー協会)で、私も会員の一人です。
  北原さんは、夢はほとんど実現したと言われます。ただ一つ以外は…。それは吉永小百合さんに会うことだそうです。でも、これも間違いなく実現すると自信たっぷりの様子。
  実現した夢は、映画を見て憧れていた加山雄三さんと会うこと。30年あまり夢を語り続けていて、実現したのは52歳の時。その後、本の帯に推薦文まで頂いたのだとか。
  映画『アメリカン・グラフィテイ』でフォードの「サンダーバード」が目に焼きつき、手に入れたのが50歳の誕生日。
  雑誌『ポパイ』で相模湾に面した湘南の佐島に建つ家に憧れ、初めてあの家を写真で目にしてから15年経った49歳の時に手に入れる。
  ブリキのおもちゃを集め始めた時も周りにバカにされたが、横浜の山手に「ブリキのおもちゃ博物館」を開館。思い立って10年あまりの月日が経っていました。
  北原流「夢実現の公式」とは、①まず想いを強く抱く、②具体的にイメージして夢見る、③その夢を語る、熱く語る、そして④目的と目標を明確に、突き進むことだそうです。
  また、「ツキの10ヶ条」とは、①プラス志向、②勉強好き、③素直である、④関心をもつ、⑤感動する、⑥感謝する、⑦ツイている人と付き合う、⑧親孝行する、⑨褒める、そして⑩ツイていると思い込む、だそうです。
  既に、吉永小百合さんと会った場面のシミュレーションまでバッチリしている北原さんは、間違いなくその夢を実現されるのでしょう。

第8弾 (H19年10月20日配信)

【トップエッセイコース8 担当:弊社社長 益永】
件名:アチーブメント・青木社長さん


  10月10日(水)にアチーブメント㈱代表取締役社長・青木仁志氏の講演を拝聴する機会があったのですが、そのセミナーを主催されたのは藤間公認会計士税理士事務所さんです。
  青木社長のテーマは「『売る』仕組みのつくり方セミナー」でした。
  実は青木社長さんのセミナーは、もう十数年前に金沢で受けたことがあります。知人が、アチーブメントの金沢における代理店みたいなものを始め出して、お誘いを受けたのです(その後、転職されましたが)。
  当時、アチーブメントさんが発刊した、千代の富士関との対談を収めたカセットテープ集も購入して、よく車中で聞いたものです。
  知人は千代の富士関を招いての講演会も開催し、その時は私の娘二人が関取に花束の贈呈をしたことも覚えています(写真が残っているはずです)。
  講演の中で青木社長は、当時は会社の資金繰りが大変で、家族には「大丈夫」と行って出かけるものの、明日に迫る決済のために必死にセールスする毎日であったと語っておられました。また、以来、無借金経営を常に目指してきたと(今は完全に安定経営のようです)。
  当時はそのようなことは、私は知る由もなかったわけですが、間違いのない事実は、今日まで青木社長が同じ情熱で頑張ってこられたこと。会社を発展させ、今さらなる前進を期しておられるということです。
  十数年前の昔話を講演後の懇親会で青木社長さんにしたところ、私の知人のことも覚えておられました。その後、その方がP生命に移られたことも。
  さて、青木社長によれば理念とは、経営目的であり、我社の存在理由を明文化したものであること。そしてその浸透方法としては、明文化し毎日全員で唱和すること、常に経営の判断基準につかうこと、人事採用、日々の意思決定、ミーティングの際などにも、常にこの理念が判断基準として用いられることが大切だというのです。
  戦略的理念経営・成功の5つのステップとしては、①企業経営の土台となる価値観をまず固める(存在理由、最も大切にすべき価値観)、②その上に構築するビジョン(将来のあるべき姿)=経営の目的を明確にする、③目的を遂げるために戦略的な目標を設定する(何をいつまでに実現するかを決める)、④目標を達成するための具体的な事業計画を立案する(経営目標、達成の手順、方法、内容を決める)、そして⑤最終的に日々の実践に落とし込める仕組みをつくり、日々管理を行う(目的、目標達成に役立つことを優先する)ということだと言われるのです。
  青木社長は今52歳。大きな目的に向けてさらに頑張ろうとされています。私は懇親会の場で青木社長に申し上げました。「だいぶ老けて見えますが、私も同じ52歳です。社長の存在を励みに私も頑張って参ります!」と。
  青木社長の存在は今後もウォッチしていきます。 

第7弾 (H19年10月5日配信)

【トップエッセイコース7 担当:弊社社長 益永】
件名:福井証券協議会で韓国ツアーへ


  9月22~24日の三連休を利用しての協議会主催の韓国ツアーが実施され、参加させて頂きました。
  22日朝、名古屋セントレア空港でJALに乗って韓国・仁川国際空港に正午着。待っていたガイドと他の日本人観光客と一緒のバスに乗りました。
  仁川国際空港は2001年3月に開港したばかり。海を埋め立てて作られたハブ空港だそう。
  バスガイドさんによると、前日は気温が32度台となり暑かったそうですが、この日は雲っていて気温も22度と過ごしやすい気候でした。穀物の収穫祭のようなお盆休みに入っているそうで、お店はほとんど休んでいるとのこと。ただ、ホテルがある中心部はお店はやっているので問題ないとのこと。また、時差はほとんど無しで時計の調節も必要無しでした(ほんの2分程度)。
  高速道路に乗って1時間、ソウル市内に入って、最初に連れていかれたのがやはり免税店。私はすぐ目の前の喫茶店に一人入ってコーヒーを注文しました。3,300ウォンでしたから、日本円に直すと約400円強といったところでしょうか。
  30分後に集合し、バスで各ホテルへ送ってもらいました(グループによって泊まるホテルが違うようです)。
  荷物を部屋に置くだけで、私達4人は「明洞実弾射撃場」へ。一人はブラブラ街を歩いてみたいということで別行動されました。
  私は初めての体験となる射撃場を選んだわけですが、料金は40,000ウォン(約4,800円)で、最初に選べる銃と名前等の説明がありました。
  私も名前は忘れましたが、何か一つ選んでチャックを着せられて室内へ。
  係員の説明を聞いて、本物のピストルを手に。ドキドキでトリガーを弾くとちょっとした衝撃が。時々、弾丸を男性に補充してもらいながら約束の12発を打ちました。
  撃ち込んだ後に、紙の標的が渡されて、見てみると結構、顔辺りに当たっていることが分かりました。
  我々4人の中では、トップの人が98ポイント。なんと私が次点で88点でした。トップの人には、「さすが殺し屋ですね」と特別な称号を(冗談で)差し上げました。正直、初めての射撃で、いい経験をさせてもらいましたが、もうピストルを握りたいとは思いません(そういう時代は来ませんように…)。
  その後はバスでコピー商店に連れて行かれました。かなり走り、細い坂道をグネグネ走行しながら着いたのは普通の一軒家。
  運転手には、外では静かに歩いて欲しいと言われ、中に入ると棚にはバッグ、財布類や時計。
  結局、幹事役の方が旅行に行けなかったメンバー向けの財布だけ買って、「静かに」バスに乗り込みました。
  いったんホテルに戻って、部屋でしばらく休憩してから再度集合。
  ロッテホテル(最高級だそうで、ロビーでピアノの生演奏をしていました)に他の日本人観光客と一緒に集まって、バスで民芸品店へ。
  夕食場は、その芸品店の下にあるという具合。骨付きカルビやキムチを味わわせて頂きました。
  その後はまたバスでソウルタワーへ。駐車場から坂道をしばらく歩くと、そこには美しく光るタワーが。エスカレーターで展望台に登り、見下ろすとそこにはソウルの煌めく夜景が。
  デートスポットになっているようで、あちこちで熱く互いを抱擁しあうカップルの姿が見えました(日本人より大胆!)。
  その日はバスでホテルに戻って終了しましたが、ホテルに着く手前でバスを降りて5人で歩きました。
  日本で言えば原宿のような通りを歩きながら、また所々にある屋台に注目しながら歩いていると雨がパラパラ降ってきました(たいした雨ではありませんでしたが)。
  翌朝はホテルロビーに7時に集合して、歩いて数分の食堂へ。お肉が入った味噌汁にご飯を入れたようなものを食べて6,000ウォン(約720円)。
  また歩いてロッテホテルへ。集合時間まで1時間弱あったのでカフェテリアへ(ここのコーヒーは一杯1,000円)。
  やがて来た観光バスは同じ目的地に行く旅行客で一杯でした。
  8時半に出発にして約1時間、非武装地帯DMZ(DeMilitarizedZone)へ。
  非武装地帯とは、1953年7月27日、韓国戦争の休戦協定締結とともに作られた無形の線だそうです。軍事分界線から南北それぞれ2kmずつ(幅4km)、韓国半島を東から西まで延長241kmに達するそうです。あらゆる軍事及び敵対行為を禁止するという緩衝地帯であるわけです。
  ここにある板門店とは、韓国戦争当時、国連軍と共産軍との休戦会談を行った場所だそうです。今回は閉店中ということで、その中には入ることはできませんでした。ただ展望台に上り辺り一面を見渡すことができました。そこからは北朝鮮の領地が見えて、金網も見張り所も見ることができました。
  続いては第3トンネルを視察しました。ソウルから1時間ぐらいのこの地に約44kmある第3トンネルが発見されたのは1978年10月のことだそうです。トンネルの構造は、長さ1,635m、高さ1.95m、幅2.1m。地表面から73mの地下に作られたあり、北朝鮮の南侵の意図が探られるものとなっています。
  ヘルメットをかぶって後ろ向きの座席に座ったのですが、あまりの狭さにびっくり。頭や肩が壁に当たりそうになりました。
  ちなみに第3トンネルということは第1や第2もあるということですが、実際は4本発見されているそうです。西部戦線の地域に第1と第3、中部戦線の地域に第2、そして東部戦線の地域に第4。
  中でも第3トンネルはソウルからわずか44kmしか離れていないということで、発見された時は韓国国民に衝撃を与えたようです。
  それにしても、こういった地下トンネルを辛抱強く掘り続ける東洋人の忍耐力にはすごいものがあります。
  都羅展望台に登ると、北朝鮮の農地が目の前に広がります。望遠鏡が多数設置してあり、コインを入れると覗けるようになってありましたので、試してみました。
  その近くにある山駅は、2002年2月20日に米国のブッシュ大統領が訪れて注目をあびた場所だそうです。南北に開通すると、鉄のシルクロードとしてユーラシア横断列車の始発駅になる所だそうです。
  昼食はそこから比較的近くの雑居ビル2階にある焼き肉屋さん。プルコギを頂きました。
  1時40分にそこを出て、またおよそ1時間かけてソウルに戻ってきました。
  我々5人の内、3人はホテルで一服し、2人はそれぞれ思い思いのところへ行ったようです。
  私はリフレッシュしてから、またロッテホテルに集まって他の観光客と一緒のバスで5時過ぎに出発。
  約40分かけてカジノ「ウォーカーヒル」に到着。最初はHISグループだけに1テーブルを使って説明をしてくれました。
  これまで分からないまま2度カジノで遊んだことがありますが、説明を聞くのは初めてで助かりました。しかも試しにということで、一人につき5枚のチップも与えられました。
  その最初のベットで1枚置いたのがラッキー「7」だったのが当たってしまい。35倍もの還元。
  その後もそのテーブルで遊び、出たり入ったりしながら、自分が潮時かと思うところで現金化しました。3600ウォンだったので、約4320円というところ。ただでもらったチップからスタートした だけに、まあまあ満足できる遊
びだったかと思います。
  1時間20分くらいカジノにいてから、またバスでへ移動。南大門前で下車し、チラッと見てから屋台で夕食を取る予定でした。
  ところがメンバーの一人が、そろそろ料理の匂いが鼻についてきたのか、屋台で食べるのはやめようということになりました(私個人としては、地元の人が食べる屋台で食べてみるのもいいかと思っていましたが…)。
  それで一班は朝食を取った食堂の隣りにあったオムライス屋で食べ(その時は閉まっていましたが)、もう一班は韓国のラーメン屋へ行くことになりました。 
  私はオムライス班で、今朝の場所を探して歩くのですが、なかなかみつからず、結局はたまたま見つけて日本食らしきレストランで妥協しました。
  私はうどんを注文したのですが、まあまあの味でした。相方はカツ定食を注文しましたが、肉が今一とのことでした。
  それからホテルまで歩いて帰って二日目は終了しました。
  最終日はホテルを9時過ぎに出て、最後のお店、キムチ専門店に案内されました。
  よく中国にある、お茶を飲ませながら売る店のように、各種のキムチを試食させながら買わせようというお店でした。その後は仁川国際空港に到着し、日本へ向けて出発しました。
  韓国には20年近く前に、福井青年会議所に所属していた時に一回だけ水源に行ったことがありますが、それ以来の旅で、特に第3トンネルが印象深い体験でした。

第6弾 (H19年9月20日配信)

【トップエッセイコース6 担当:弊社社長 益永】
件名:魅惑の「福島正伸さん講演会」


  以下、福島正伸先生の講演の一部をご紹介させて頂きます。

 人は紹介・紹介で全ての人に会える。NHKが実験したことだが、人は何人の紹介者を間に入れれば会いたい人と会えるかを調べてみたそうだ。例えば東京のAさんが、北海道のBさんに会いたい場合、紹介者を何人つないでいけば会えるか…。
  結果は平均で5名だったそうだ。日本人の人口は1億3千万人だが、わずか5人の紹介者でつながっていることになる。人類60億人とは多分、10人以下でつながっているだろう。
  人と会えない理由はただ一つだ。会う努力をしていないだけだ。
  人は会いたい人には必ず会える。相手が「No」と言ったら会えないかもしれないが、それでも必ず「Yes」と言わせる方法がある。
  それはすごく単純なことで、毎日、手紙を書くことだ。そうすれば多分1年以内に100%会える。なぜ会えるのかと言うと、世の中にはそこまでする人がいないからだ。相手が感動すると必ず会える。私の場合も、未だに会えない人は一人もいない。
  私は若い頃に始めた事業が4つとも失敗した後、知人に問われた。「君にとって失敗の定義は何?」と。
  私はこう答えた。「あらかじめ立てた目標を、ありとあらゆることをやって、どんなに努力をしても達成できなかったこと」と。すると、無茶苦茶怒られた。
  「でも、どんなに努力しても、うまくいかないことってありますよね」と言い返すと、「ない!」と断言された。
  「じゃあ、君が努力した内容を紙に書いてくれないか? ありとあらゆることをやったんだよね。営業に行って断わられた? じゃあ、その会社で会った社員の名前を全部書いてくれないか? 提案書を分かってくれる人がいなかった? 1000回出したよね。いつ出したか、日にちを書いてくれないか? えっ!4~5回しか行ってない?」
  私はあらかじめ、どこで諦めるか決めてあったのだ。諦める時点を自分で決めていたのだ。そのことに気づかされた。
  「君が諦める以外に失敗ってあるのかな? 全て成功するようにできているのに、なぜ勝手にやめるんだ」と、その人に言われた。
  私の場合は、例えば5回ダメだと諦めるとか、諦める時点を事前に決めていた。
  私がその後、決めたことがある。それは「やると決めたことは、一生、やめない」ということだ。少なくとも「やめないことはできる」。10年経って「成果が出ていないじゃない」と言われても、関係はない。成果が出るまでやるだけだ。状況は変われども、やめないのだ。
  知恵と、アイデアと人脈は無限だ。「行き詰った」というい人がいるが、それは気持ちの面で行き詰っただけだ。考えたなら考えただけ、新しいやり方が見つかってしまう。
  仕事とは何か? 「約束したことをして、入金まであって、はじめて仕事が終わる」と答えたら、また怒られた。
  「仕事とは、その仕事の最低3倍の仕事を頂くまで仕事ではない」と。
  お店をオープンして、最初の一日目にお客さんが一人来て、千円の買い物をしたとする。翌日、そのお客さんが友達を一人連れてきて、それぞれが千円の買い物をした。そのように倍々で来店客数と売上げが増えていくとすると、正確に計算すると28日目に1億3千万人で日本人全員が来ることになり、2ヶ月目からは宇宙人が交じってしまう(笑)。
  一ヶ月先を見ると、今やっていることの意味が変わるのだ。挨拶一つが手を抜けなくなってくる。
  世界一になろうと思うのならば、「今やっていることが世界一の企業がやることかどうか」を考えなければならなくなる。この挨拶の仕方が世界一なのだろうか。このクレーム対応の仕方が世界一なのだろうか。今やっていることが、自分達が目指すことと同じレベルでやっているのかどうか。
  世界一の会社は今日作れる。世界一の気持ちを今日持てば、やることが世界一になってしまうのだ。全ての業務にあてはめていく。
  理念とかポリシーとかビジョンは全ての基準だ。紙に書いて眺めておくものではない。だから常に確認しなければならない。
  全部、自分の中で未来を決めることができるし、自分自身がどうするかで全てが変わっていく。
  どんな職業も素晴らしい夢にできる。自分がその仕事にどうかかわるかが問題であって、自分自身で決めることができる。
  感謝される、喜ばれる、それが生きる価値だ。大事なことは、その人がそのように仕事へのかかわり方をするかだ。
  商売とは自分たちが関わったら魅力的な商売にしてしまえばいい。
  なぜこの仕事をしていくのかを考えていくと、全ての仕事が夢になる。大事なことは全ての仕事と社会と自分がつながっていて、そこに意味や意義をつくりだせたら、一つの 笑顔が生み出されたら、素晴らしい仕事だといういことだ。
  イチロー選手が大リーグですごい記録で歴史を塗り替えた時に言った言葉がある。
  「次の目標が無くなりましたね?」と聞かれた際、「課題だらけです」と答えていた。彼にとって最終目標は達成したことがないのだろう。周りからどんなに褒められても、彼 は「まだまだ未熟です。全ての球を芯で捉えきれないんです」と、答える。
  こういう姿勢を自己評価という。どうしても私達は目の前の評価に振り回されてしまう。本物の一流を目指して、ひたすら誠実にチャレンジし続けているのがイチロー選手だ。 常に自分に厳しいし、人が見ていないところでこそ努力する。
  常によりよくできる。より良くできない仕事はない。それをやめてしまった時に仕事はうまくいかなくなる。今やっている全てを改善することを楽しんで、そこに喜びを見出していくことだ。
  周りから評価されても、されなくても、そういうことには振り回されずに、常にお客様や社会に喜んでいただくためにどうしたらいいかだけを考える。
  一番肝心なことは考えること。昨日と同じことをやらないこと。
  手法も無限、本気も無限。どんなに本気でも、今より本気になることができる。
  人脈づくりがうまい人は名刺交換の時に、必ず最初にやることは、相手の困っていることを聞く。そして、相手に対して自分ができることを先にやる。
  名刺交換とは相手のためにやるもの。人脈づくりがうまい人とは、先に自分から相手の人脈になっていく。他人の人脈になれる人が自分の人脈を増やすことができる。

第5弾 (H19年9月5日配信)

【トップエッセイコース5 担当:弊社社長 益永】
件名:幻冬舎・見城社長のテレビ出演


  8月5日(日)朝7時からのテレビ番組「ボクらの時代」に登場された見城社長は、作家の村上龍氏、そして音楽家の坂本龍一氏と一緒に鼎談されていました。
  見城社長の著書『編集者という病い』(太田出版)を読んでいましたので、三人は飲み・遊び仲間であり、それぞれ深い絆で結ばれていることは存じていました。
  馴染みのバーで、しかもお酒を飲みながらの談笑ですから、気軽な会話が進められていたのですが、惜しむらくは30分番組であるためか、かなりカットされてしまったな、という印象を受けました。
  村上氏が、「最近、昔ほど感動しなくなったんだよなあ」と述懐されると、坂本氏が、「それはお前のハードルが高くなっているんだよ」と応じていました。
  「昔は、面白いプロットを発見すると、飛び回っていたんだけどなあ」と村上氏。
  見城社長は、「俺は何か仕事を成し遂げた時に女性から褒められたくてやっている。お前らに褒めらても、ちっとも嬉しくないんだよなあ」と。
  すると村上氏は、「それは病理だよ、病理」と。
  三人ともに共通していた意見は、「遊び(女)は3日で飽きるけど、仕事は飽きないんだよなあ」という点でした。
  一方、14日(火)朝6時からのテレビ東京系「ワールドビジネスサテライト」には幻冬舎ルネッサンスの小玉社長が登場されていました。
  同時に、幻冬舎ルネッサンスから小説『氷の華』を出版し、それが好評であるため幻冬舎本体で再発刊された本の著者・天野節子さんもインタビューされていました。
  『氷の華』は現在、約2万部売れていて、天野さんは第二作目にお取組み中のようです。
  幻冬舎ルネッサンスは、こういった隠れている才能を発掘することが仕事であるようで、一冊一冊丁寧な本作りを心掛けておられるようです。
  たまたま5日、14日と幻冬舎グループのトップがテレビ番組に登場されましたので、見ていて非常に楽しかった私です。幻冬舎ルネッサンスさんには弊社監修の『ゼロから始めるFX』で大変にお世話になっていることもあり、同グループのますますのご発展をお祈りしております。

第4弾 (H19年8月20日配信)

【トップエッセイコース4 担当:弊社社長 益永】
件名:南部直登さんがNHK「歌謡コンサート」出演!


  南部直登さんのことを知ったのはまだ今年に入ってからです。
  東京の知人がサイン入りCDを送ってきれくれました。「この人は福井の出身だよ」って。「へえ~っ」という感じでしたが、調べれば調べるほど凄い人であることが分かりました。
  まず、本業の生保セールスでは常にトップセールスの部類。それでいて、年間百数十回もライブもこなしている。まさに二足のワラジというやつですが、両方ともプロというのが凄い!
  南部さんは昭和25年生まれ。母親が音楽好きで、小学生の頃にバイオリンを習わせてくれたのだそうです。その後、高校時代に出会った「ジャズ」に傾倒。父親の猛反対を押し切り、ギター一本抱え単身上京。
  昭和51年にコロンビアレコードより、南部直登とラブ・ロマンス「あなた横浜わたしは神戸」という作品でメジャーデビュー。第2弾「ガラスの人形」も発売するものの、まったく売れなかったそうです。そして、早くも解散。
  しかし、音楽を諦めることができず、復帰のチャンスを狙いながらナイトクラブ等で歌っている時に、プロダクションの人から声をかけられます。バンド名をトワイライトゾーンとして、TDKレコードより「南へ」という作品で第2のメジャーデビューを果たします。
  しかし、この作品も全く売れずにバンドは解散。
  しばらくは昼はサラリーマン、夜はライブハウスという生活を続いたのだそうです。
  そして今回、「盛春歌」で第3のメジャーデビューのチャンスを掴まれました。団塊世代の応援歌として作ったこの歌は今年の1月24日に発売されたのです。
  8月28日(火)の午後8時から、NHK「歌謡コンサート」に出演されます。お時間のある方は是非、ご覧になって下さい。

       「盛春歌」 (前半部分だけご紹介します)

 気がついたらこんな年になっていた 
  力道山の空手チョップをまねして
  長嶋野球にあこがれた ほんの少し前だったのに
  気がついたらこんなにしわがふえていた
  裕次郎を気取って銀恋唄い
  尾崎ゴルフにあこがれた
  ほんの少し前だったのに
  今じゃ可愛い孫もいて おじいちゃんと呼ばれてる
  でも 老け込む年じゃない
  今が盛りよ 人生は
  唄ってみるぜ 盛春歌

第3弾 (H19年8月5日配信)

【トップエッセイコース3 担当:弊社社長 益永】
件名:「大連・旅順視察旅行」報告記


  福井県、福井市、そして経済同友会の代表で構成するのが「三友会」です。県からは5名、市からは3名、そして経済同友会からは5名のメンバーを出すことになっています。
  2年1期でメンバーが交替し、今期で6期目です。
  期中に一回は海外への視察旅行をすることが不文律となっていますので、第6期三友会は7月12~15日の日程で大連・旅順へと行ってまいりました。
  12日朝8時、福井駅東口に集合し、バスで富山空港へと向かいました。中国南方航空で現地時間2時40分頃に大連空港到着。大連中国旅行社有限公司の女性ガイド・丁寧さんが待っていて下さり、以後4日間お世話になりました。
  幸い天気は快晴で、初夏のような爽やかな気候。旅行中、雨に降られることは一度もありませんでした。
  いったん3泊する「ラマダ プラザ ダイレン」にチェックインし、部屋に荷物を置いてから市内観光です。まずはロシア人街を散策。1898~1905年はロシアの祖借地だったそうで、ロシア人が大勢住んでいたというこの地域には約20棟のロシア風の建物が並んでいます。旧ロシア人街の老朽化が進んだため、2000年に復元されたものだそうです。
  続いて中山(ちゅうざん)広場へ。パリを模した大きなロータリーで、そこから道路が放射状に伸び、中央は緑の芝生の公園です。周囲は銀行やホテルが林立していて、大連賓館(旧「満鉄大和ホテル」ではロビーに入って見学させてもらいました。
  その後、旧満鉄本社跡地を見学し、記念の写真を撮ってからは、日本人街と呼ばれる地域を散策。ここに建ち並ぶ住宅は空き家ばかりのようです。余りに観光客ばかりが増えすぎて、誰も住む人がいなくなってしまったのだそうです。
  「茗香園」という名前のお茶屋さんでは、若い男性が流暢な日本語で解説しながら急須に茶葉とお湯を入れていきます。それをアシスタントの女性が客のお猪口に注いでいきます。お茶菓子も頂きながらお茶を飲んでいると、疲れも取れる気分がしました。
  そのお茶屋の別室に連れていかれると、なぜかそこはコピー商品ショップ! お茶の販売コーナーでも熱心な勧誘を受けました。
  ところで通貨の話では1元が約16~18円。タクシーに乗って数分程度走って8元でしたから、日本円にすると140円位ということになります。フリーの時間にバスに乗ったメンバーもいたようですが、1元だったとか。
  さて、お茶屋さんからは、またバスで夕食の会場「万宝海鮮舫」へ。
  本当は旅行会社が用意した別の場所で食べる予定だったのですが、メンバーの一人が、もっと良いレストランを知っているということで、事前に旅行会社にお願いして変更してもらったようです。今回の旅行では、そのメンバーの知識と経験に大いに助けられました。
  さて着いてみると写真にあるような豪華なレストランで、シーフード料理を堪能させて頂きました。
  それからは二次会としてカラオケへ行って、帰ろうとしたら、誰かが「ホテルはすぐそこだよ」と。
  「ほんなら歩こう」となったわけですが、道を間違えたのか、結構遠い! 途中、メンバーが現地の人に道を聞いたりして、ようやくたどり着いたわけですが、夜の大連の街を歩けたので良かったかも…。
  ここ大連でも道路を横断することは命懸けです。車と車の間をすり抜けて皆さん横断します。信号は無い場所が多いし、あってもないようなもの。ホテルの部屋にいても、早朝から絶えず聞こえてくるのがクラクションの音。本当に朝早くから人が歩いていて、車もプップー、プップーと走っています。   
  タクシーにも乗りましたが、ガイドさんに言われていた通り、怖い怖い。たまたま助手席に乗った時に、シートベルトを締めようとすると、器具が見当たらない。それを横目で見ていた運転手が言った言葉が「不要(フヨウ)!」。「そんなものせんでいい!」ということでしょう。私は目的地に着くまで助手席右上の取っ手を握りながら(中国は左ハンドル)、歩道者を避けながら突っ走るタクシーに冷や冷やしながら乗っていました。
  翌13日は、まずはキャノン大連工場へ。入り口には「熱烈歓迎」の看板が。正式には佳能大連辧公設備有限公司という社名ですが、董事長・総経理の方と管理部長兼総務部指導部長が応対して下さいました。
  まずは董事長からご挨拶がありました。2010年にこちらに赴任して丸6年、董事長になって2年になるそうです。
  大連では高層ビルの建設ラッシュとなっていて、昨年の住宅値上り率は中国で一番で18%だったそう。特に海沿いのマンションが人気で、海が無い地域の富裕層が買っていると。物価もやや高めで、賃上げも高めで推移しているのだとか。
  キャノン大連は1989年設立、1991年から稼動開始で、現在は6642名が働いているそうです(男性1024、女性5618)。事業は①レーザービームプリンター、②カートリッジ、そして③リサイクルの3つ。
  続いて部長のご案内で工場内を見学させて頂きましたが、大勢の女性工員がテキパキと仕事を進める様は壮観でした。アメリカや日本国内の工場も見学したことのある経済同友会のある方は、「それぞれの国によってまた随分と工場の雰囲気も違うものだ」と感心しておられました。
  会議室に戻って再びお話を聞いたり、質疑応答を経てキャノンさんを後にしました。

 バスに乗って着いた昼食会場「大江戸」では、日本で食べているかのような寿司定食を頂きました。
  続いての訪問先は品川精密電鍍有限公司で、本社は鯖江市にある株式会社東亜エンタープライズさん。
  こちらでは董事長・総経理の方と、そのご子息の取締役専務で管理部長の方が応対して下さいました。
  董事長は福井の眼鏡会社の副社長を60歳の時退職されてから、ナカニシビジョンという眼鏡会社の要請を受けて中国に工場を建てました。
  会社設立は2001年で、02から操業。2年間は眼鏡のメッキを主にやっていましたが、その後は他の業種へも広げた結果、今では眼鏡関係は1/3になっているのだそうです。
  人員は400名位で、その内、女性は70%。メッキと塗装をしていて、塗装にはスプレーと電着による塗装があるのだとか。
  これはキャノンさんでも聞いた話でしたが、「一人っ子政策」のせいで、25~26歳以下の人については人の質が急速に悪くなっているのだそうです。それまで怒られた経験がなく、会社に入って初めて怒られるとすぐに辞めていくと。キャノンさん同様、こちらでもこれからは人を減らせていくのだそうです。
  中国は法治国家というよりは人治国家であり、決めるとやることは早いそうです。
  また、儲けるよりも損しないことことに注力してきたと言われるのです。もしかしたら、ここに永続の、そして繁栄の秘訣があるのではないかと思わされました。
  続いて3ヵ所目の訪問先はジェトロ(日本貿易振興機構)の大連事務所です。森ビルの中に入っていて、こちらの人の間では、この森ビル内の企業で働くことが夢になっているのだそうです。
  お会いして下さったのは総務・企画部長の方。大連市の概要、交通事情、政治・経済事情についてご説明下さいました。
  こちらは日本語教育のレベルが高く、海外のソフト産業の進出も増えてきているそうです。市内にはIBM、GE、DELL、アクセンチュア、松下などの拠点があり、主な業務としては、①コールセンター業務、②アウトソーシング業務、そして③ソフト開発だそうです。大連のソフトウェア産業の80%は日本向けだとか。ただ、人件費の高騰により(最低賃金は650元で、ここ数年で4割増)、新規の製造業の進出は少なくなってきているそうです。
  ジェトロを後にしてからはホテルにいったん戻り、一服してから夕食会場「大清花餃子」へ。こちらでは、焼餃子や水餃子など、様々な餃子を味わわせてくれるお店でした。
  食後はすぐ近くのマッサージ店「足療館」へ。ここは女性のメンバー服部さんも同じ部屋でマッサージを受けました。
  着替えだけは別室でして、あとは男女混合。1時間半もかけて、「痛い!」、「ラクチン~」が交互に来るようなマッサージで、終わってみると、「あぁ~、ちょっと楽になったかな」という感じ。旅の疲れも少し取れた感触でした。
  その後はまた昨晩とは違うカラオケ店へ行きました。ここでは、上海で以前見たような雑技団の少人数バージョンのショーもあり、楽しまさせて頂きました。
  翌14日はまずは大連港近くの建物(大連港集団有限公司)の屋上に上り、大連港を一望しました。するとその屋上にもショップがあり、誘導されて中に入ると真珠のショーケースが並んでいます。
  お客が来たということで、早速に売り込み開始! あまり買うそぶりを見せないと、どんどん価格は下がっていくようです。半値は当たり前! 結局は2名が絵葉書を買っただけで、先方にとっては
「しけた客」ということであったかも知れません。
  さて、車中でのガイドさんの話によれば、中国の女性は立場が強くて、結婚する際には、以下の5つの条件に合っているかどうかで男性をチェックするのだそうです。
  それは「鶏のように早く起き、うさぎのように従順で、犬のように忠実で、牛のように働き、ブタのように食べる(まずくとも『おいしい、おいしい』と)」。いかがでしょうか? 条件に合っている方は中国人女性
をお嫁さんにもらうことができます!
  旅順に向けてバスで1時間程度走ると、そこは「東鶏冠山景区」。石碑にはこのような案内文が記されてありました。
  「1898年帝政ロシアが旅大を強引に借りた後、旅大を長期的に占領するために、1900年より、中国労働者にこの永久的な防衛工事を築造するように強制した。これは帝政ロシアが旅順東側の陸上防衛線にある重要な工事であり、北側の開豁地の制御に用いられる。1904年日露戦争が始まった後、ここは日露戦争の重要な戦場となった。8月21日に日本軍第11師団は攻撃を始め、なかなか奪い取れないため、坑道発破により堡塁に近付けていた。12月15日に、ロシア軍陸軍防衛司令コントラキンカ少将が日本軍の重砲で堡塁内の司令部で砲撃に当り死んだ。12月18日に、日本軍は堡塁の正面に2.3トンダイナマイトをいれて大きい発破で北堡塁を占領した」
  要は日露戦争の際にロシア軍が築いた堡塁を日本軍が攻めて占領したということです。その坑道跡を見学し、記念碑の前で記念写真も撮りました。資料館のようなところでは、日本語が流暢な戦争体験者のおじいさんに展示物を説明して頂きました。説明そのものは無料でしたが、その代わり、説明後に写真入りカタログを猛然とセールスされましたが…。ここでは経済同友会の方が一冊購入されたので、一件落着。ただ、「誤植が多すぎるし、出版元も明記されていない」と後でおっしゃっていましたが。そして、その後行った、別の売り場で、もっと立派な写真入り資料集が、少し安く売っていたので、その方もご立腹…。
  その後、「水師営会見所」と言って、日露戦争でロシア側が降伏し、1905年1月、乃木希典将軍とロシアのステッセル将軍が旅順開城の交渉を行った場所にも入りました。ただ、建物は当時の資料を元に復元されたものだそうですが…。
  昼食は近くでまた中国料理でしたが、そろそろ「におい」が鼻についてくるようになったというのが正直な感想でした。中国の旅に慣れているメンバーも、「そろそろピークでしょう?」と心配されていましたが、その通りでした…。
  バスでまた大連に戻ってからは、「星海公園」という海水浴場へ行きました。昔、大きな隕石が空から降ってできたという伝説に由来して、このような名がついているのだそうです。遠浅のために絶好の海水浴場で、海を見る機会がない内地の人達が夏場には喜んで集まるのだそうです。
  遠くにはバンジージャンプができるようなタワーが立っているのが見え、実際に一人がバンジージャンプではなく、横長くつなげてあるロープに繋がれて浜辺まで滑っていくのが見えました。
  それからは「山珍海味」という海鮮料理の市場へ入ったり、国際貿易センタービルの57階に上り、大連市内の眺望を楽しんだりしました。
  いったんホテルで一服してから、午後6時過ぎにホテルを出発、お土産屋へ寄り、ブラブラと店内を見て回りました。しつこく付いて回る店員。あってないような値段(粘るとすぐ半値になってしまう!)。
  メンバーの中でネックレスを購入した人がいたので、ホッと安心(誰か買わないと、お店もガイドさんも困る?)。
  夕食会場は「大連英都肥牛火鍋城」で、ここは一人ひとりに小さい鍋が付き、そこに牛肉や野菜、豆腐などを入れて食べる、所謂「しゃぶしゃぶ」。
  この食事が一番人気だったようです。と言いますのは、瞬間、全員が黙々と食べるものですから、その場がシーンとなることがあっからです。あたかも、蟹を黙々と食べている時のように…。
  食後は、一度ホテルに戻り荷物を置いてから、再びカラオケに行くことになりました。

 経済同友会のトップの方が、「今夜は私の招待とさせて頂きます!」と宣言されたものですから、有難く10名全員が昨晩と同じお店に行くことになりました。
  タクシー3台に分乗して、ガイドさんも含む11名は9時半頃にお店に着き、以後約2時間、雑技団等のショーなんかも含めて楽しませて頂きました。
  翌朝は6時からの朝食の後、すぐ大連空港にバスで向かいました。台風がまさに中部地方を襲っている最中ということで、名古屋セントレア空港向けて飛行機が飛ぶかどうか心配でしたが、とりあえず空港には行かなければなりませんから。
  チェックインまで待つこと1時間半近く、とにかく手続きが始まったときはホッとしました。さらには、予定よりも1時間遅れで飛ぶことがアナウンスされた時は嬉しかったです。
  行きは富山空港から、帰りは富山便が無いことから名古屋になりましたが、名古屋に着いてみると、風もそれほどなく、雨も降っておらず、ちょっと拍子抜けしました。
  それからバスに乗り、なんとか予定時間からは40数分の遅れだけで無事、福井に戻ってくることができました。
  三友会のメンバーであったからこそ行けた今回の「大連・旅順視察旅行」。お陰様で貴重な体験をすることができました!ありがとうございました!

第2弾 (H19年7月20日配信)

【トップエッセイコース2 担当:弊社社長 益永】
件名:岩堀先生&ミネハハさんお話と歌


  倫理法人会のモーニングセミナーで、6月13日(水)に講話されたのが、越前市立服間小学校教諭の岩堀美雪先生でした。
  テーマは「子供達の自己肯定感を高めるために」でしたが、その際、今度ハーモニーホールでお話と歌の集いが行われることはおっしゃっていました。
 それが7月8日(日)に午後2時から、同会場の大ホールにて開催されたので、参加してきました。
  岩堀先生のお話は約1時間で、前回伺ったのとほぼ同じストーリーでした。それでも、充分、感動的でしたが…。休憩を挟んでステージに立たれたのが、ミネハハさん。スタジオミュージシャンのコーラスボーカルとして活躍されていて、「CMソングの女王」と呼ばれているそうです。幾つかを実際に歌ってみて下さったのですが、それは例えば「クロネコヤマトの宅急便♪」であったり、「人形の久月♪」であったり、「イ~オ~ナ~♪」であったりです。

 それ以外では、以下のスポンサー名をあげておられました。タイガー、サッポロ一番、フジカラー、グリコ、アテント、ドモホルンリンクル、ハリカ、コロナ、シャディ、日清サラダ油、クリナップ、ポンジュース、ソフランS、ワイドハイター、にんべん、カラリオ、ブルーレット置くだけ、TOTOウォッシュレット、コーヒーギフトはAGF、リンナイ、住友生命、昭和シェル石油等などです。
  そのミニハハさんが、癒しの声で歌った下さったのが「千の風になって」や岩堀美雪さん作詞の四曲、「ありがとう」、「しあわせ」、「母の歌」、そして「ありがとう地球」。
  「ありがとう」は、子供を授かった喜びと、親子で成長していける喜びの歌。「しあわせ」は、苦しんでいる若者の気持ちを代弁し、それを見守る教師の視点で、本当の幸せを訴える曲。「母の歌」は、自分の母をモデルに、母からの愛、母への愛を唄ったもの。最後の「ありがとう地球」は、地球への感謝の気持ちを歌い、美しい地球へと戻す決意を述べた曲です。
  ミネハハさんの透き通る癒しの声に、心和む一時を過ごさせて頂きました。
  なお、岩堀先生の著書『心がぐん!と育つ パーソナルポートフォリオ』も購入してきました。(ピアニストの飯田俊明さんもステージで伴奏されていたわけですが、「戦場のメリークリスマス」を独奏もされていました)

第1弾 (H19年7月5日配信)

【トップエッセイコース1 担当:弊社社長 益永】
件名:あのリッツ・カールトン東京へ


  ザ・リッツ・カールトンと言えば、経営品質を学ぶ者にとっては特別なホテルです。福井からわざわざ大阪まで体験宿泊に行ったグループもあったやに聞いています。
  「クレド」という理念集を全員が携帯し、常に唱和し、顧客満足度の高いホテルとして名が通っています。米国では二度に渡ってMB賞を受賞しています。これは日本経営品質賞が模範として学んだアメリカの表彰制度です。
  そのリッツが満を持して東京に進出し、話題になっていることは皆さんご存じの通りです(3月30日オープン)。
  さて、その講演会は6月20日(水)の午後2時からザ・リッツ・カールトン東京で開催されました。言わずと知れた六本木ミッドタウン2階のカンフェランスホールです。 三人の講師のトップバッターは井上富紀子さん。最近出された本『リッツ・カールトン20の秘密 一枚のカードに込められた成功法則』の著者で、テーマは「リッツ・カールトンからの贈り物」。
  井上さんは05年6月から07年3月までの1年10ヶ月で、世界21ヶ国63のリッツ・カールトン全てを泊まり歩いたというのです。
  その体験等を記されのが今回の著書で、アマゾンではベストセラーにもなっているようです。
  井上さんが全てのリッツを制覇しようと思ったきっかけはザ・リッツ・カールトン大阪との出会いだそう。
  「それまでも超高級と呼ばれる世界のホテルに宿泊したことはありましたが、リッツ・カールトン大阪で出会ったのは、単なる器の豪華さだけではなく、“心に訴えるサービス”でした。自分が今何をしたいのか、ゲスト自身が気付かない欲求さえも、スタッフがあらかじめ察知して準備してくれる。そのサービスの素晴らしさに感動し、リッツの全てを知りたくなったのです」
  「全てのリッツのホテルに泊まった」というと、女性の反応は「よくそんなにお金があったわね」であるのに対し、男性は「よくそんなに時間があったね」になるのだそうです。
  井上さんは、もともと思ったことはすぐ実行するタイプなのだそうです。「自分の気付いたことを行動に移す人は人生を変えられる。思うだけではダメ、行動して初めて変われる」と言われるのです。
  井上さんは、30歳の頃から夫の経営する会社で仕事をするようになっていましたが、女房が同じ会社にいるとやりにくいので辞めて欲しいと言われ退社。損保代理店の会社を作って細々とやっていたのだそうです。
  普通のおばさんになりたくないと思い、近所の公共のジムへ通い始め3ヶ月続けたところ、風呂上がりに見ると自分の身体が変わっていることに気付きます。
  誘われてあるボディビルの大会に出ると優勝してしまったのだそうです。面白くなって、さらに頑張って、最終的には中部大会で優勝するまで行ってしまいました。
  その後、エアロビのレッスンも受け、インストラクターの資格を取ってスタジオをオープン。
  心肺機能を高めようとマラソンを始め、3年間毎日、続けたところ、フルマラソンも走れるようになれました。
  ホノルル、ゴールドコースト、そしてニューヨークのマラソンも走りました。
  そんな時、お母さんが倒れて自宅に引き取りました。以後の1年間は介護の1年間でしたが、井上さんは母がくれた1年間だと思っているのだそうです。それまでは親孝行らしいことをしてこなかったので、その1年間のお陰で悔いが残ることはないのだそうです。
  お母さんが亡くなってからはお金の苦労があり、今度は父親が倒れて、また看病の生活が始まりました。
  更年期障害が出始めた上に、問題が次から次と起こり、どうしたらいいか分からないし、誰にも会いたくない時期でした。
  そんな時、偶然にリッツ・カールトンのセミナーに参加したのです。桧垣さんの講演を聞いて、輝いているキャリアウーマンのオーラにやられてしまったと言うのです。
  そして世界中のリッツ・カールトンを体験してみたいと思うようになり、なんと1年10ヶ月でやり遂げてしまうのです。
  井上さんは、例えば名前入りのバスローブだとか物のプレゼントも頂いたが、心のこもったサービスの方が、より心に残ると言われるのです。
  アメリカ・クリーブランドのリッツ・カールトンに2泊した時のことです。
  風邪気味だったのでホテル内のショップに薬を買いに行きました。店員から「風邪にはビタミンCを摂って下さいね」と言われ、部屋のあるフロアに戻ると、エレベータードアの前で、オレンジジュースを持った女性スタッフが待っていたのだそうです。
  ショップから部屋に戻るほんの数分の間に、スタッフ同士の見事な連携プレイで創意溢れるサービスを実現するリッツに、井上さんはハマってしまったのです。
  リッツでは、ゲストに関して一人のスタッフが得た情報を、全世界で3万1000人いるリッツの全従業員が共有し、それぞれのスタッフが阿吽の呼吸で新たなサービスを創造するのだそうです。
  さて、井上さんの講演の後はザ・リッツ・カールトン東京総支配人のリコ・ドゥブランクさんで、テーマは「The Passion to Serve」。
  ドゥブランクさんのお話では以下のような寓話があり、とても印象に残りました。
  列車が走っていました。グリーン車には飲み物のサービスもあり、お客さんは楽しく語り合っていました。一方、普通車にはそのようなサービスもなく、お客さんは噂やゴシップ話にあけくれ、文句ばかり言っています。やがて駅に着きました。そこでは降りる人は降りて、また新しい人も乗ってきます。自分はグリーン車に乗るのだと決めて乗っている人は、仕事にやりがいを感じながら、他の人の手伝いもする人なのです。
  どうですか。とても比喩的なお話ではありませんか? 私は感銘を受けてしまいました。
  同じ目的に向かって乗っているクルー。やりがいを持って生き生きと働く人もいれば、文句ばかり言っている人もいます。でも、やがて駅に着いた際に、降りる人には降りてもらればいい。きっとまた、やる気に燃えた新しいクルーも乗ってくれるに違いない。
  そういう同じ目的意識を持てるクルーと仕事をしたいものですね。